掲示板

コメント: 1742
  • #1742

    KSASAGE (月曜日, 25 2月 2019 18:21)

    「啓蒙思想」は17世紀の西欧に登場した思想、思潮である。
    ルネッサンスがあり、宗教改革があり、そして「啓蒙(思想)」が出現し、近代の地平を切り開いたのだ。「近代」(modern)とは新しい時代という意味だ。

    「啓蒙思想」には、人間の自由な理性への深い信頼がある。
    そして「啓蒙思想」の基本的な部分に、
    かかる理性による、(1)古くからの伝統や既成の秩序への批判と、
    (2)そして世界の変革(改良、改革、革命)への志向と
    があるといえる。

     これは人間にとって知性、理性、科学が重要だという考え方である。知的なこと、ものにしたがった実践、制度、秩序が良いとういことだ。
    ここから「啓蒙(思想)」は、根本的に「知性主義(主知主義)」だといえる。

     「啓蒙(思想)」にあたる英語は、enlightenment(エンライトゥンメント)。まんなかにligh(ライト)があるが、ごぞんじのように「ひかり」である。動詞のenlighten(エンライトゥン)は、「ひかりではっきりと照らす」「啓蒙する」という意味である。

    訳語の「啓蒙」の「啓」は「ひらく」という意味。「啓蒙」の「蒙」は「くらい」の意味である。「啓蒙」とは、くらい状態(つまり無知の状態)からの脱却を意味する。

  • #1741

    KSASAGE (火曜日, 12 2月 2019 10:30)

    オルテガは「大衆の反逆」と言った(『大衆の反逆』白水社ほか)。
    クリストファー・ラッシュは「エリートの反逆」と言っている(『エリートの反逆』)。
    正反対のことを言っているようですけど、でも同じなんですね。

     20世紀になって「大衆」が進出してきた。「エリート」が就くべき地位にまで
    「大衆」が進出している。つまり大統領や大臣、国会議員になっているのは、「大衆」だということです。これがオルテガ。

     ラッシュは、いまの「エリート」は堕落した「エリート」だという。「大衆」と乖離した世界で生きている、「コミュニティ」や「普通のピープル」との、昔の「エリート」にはあった結びつきを失っているという。ラッシュは歴史家です。アメリカ史のなかで論じている。

     二人の違い。オルテガの議論は伝統的な「エリート」的立場からの貴族主義的批判と言われている。国王、国家、民衆に奉仕する「エリート」ですね。ラッシュは、「普通のピープル」の側からエリートを批判している。

     「普通のピープル」の側からラディカルに「エリート」や「エスタブリッシュメント」や「オリガ-キー」を批判するのが、「ポピュリズム」(人民主義、民衆主義)ですが、ラッシュの「ポピュリズム」には「階級闘争」論が節合している。

     政治、経済。メディアの「エリート」だけでなく、彼らを含む「アッパー・クラース」と「アッパー・ミドル・クラース」。これが人口の20パーセントなんですが、彼にとっての「普通のピープル」は、残りの人口の80パーセントです。労働者階級を中心とする民衆です。
     「ポピュリズム」ですから、基本は「ピープル」の立場に立っての「エリート」批判なんですが、あくまでも「ピープル」概念を優位させたうえで、「階級闘争」概念を取り込んでいる。ラッシュの「ポピュリズム」は社会主義的「ポピュリズム」ですが、マルクス主義的な社会主義とは根本的に対立します。



  • #1740

    TSUZINHO (水曜日, 06 2月 2019)

    今月の「100分de名著」はオルテガの「大衆の反逆」なんだそうですよ。
    ポピュリズム論がらみでしょうから見る必要がありそうです。
    http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/84_ortega/index.html

  • #1739

    義積弘幸 (水曜日, 23 1月 2019 22:15)

    『純粋理性批判』を久しぶりに手に取り、「第一章 純粋悟性概念の図式機能について」の途中まで、今日はバルトーク4曲を聞きながら読みました。これまではマーラーが多かったのですが、リズミカルなバルトークが聞きたくなって、そういう選択にしました。すべてよく知っている曲で邪魔にはなりませんでした。

  • #1738

    義積弘幸 (月曜日, 21 1月 2019 22:52)

    昨年後半、『ゲンロン6 特集 ロシア現代思想Ⅰ』『同前7 ロシア現代思想Ⅱ』を読んで学ぶことが多かった。特にドストエフスキーにおけるポリフォニー小説論を提示したバフチンについて、かなり紙面を割いて討議していたので、そこで新しいバフチンロンにふれることができた。
     また『同前4 特集 現代日本の批評』においては、浅田彰のインタビューも読むことができた。現在は浅田は柄谷行人とは連絡を取り合っていないと言う。
     編集は、71年生まれの批評家の東浩紀、私が読んだなかでは柄谷批判ができる数少ない批評家である。
     75年生まれの杉田俊介の「ロスジェネの水子たち」という論文もあり、この年代の悩みや問題点について述べていた。
     私が『ゲンロン』を知ったのは、FBでの若者の横光利一論とバフチン論によってであるが、年代の差を感じた。彼らは構造主義、ポスト構造主義、ネグリ・ハートの帝国やマルチチュードなどと言う言葉を何気なく使っている。私など、そうなのかと思うだけで批判もできないが、とにかくポスト・モダンと言った感じだろうか。私は今の若い?人たちには、こういうのがうけているのかと思うばかりだ。

  • #1737

    義積弘幸 (土曜日, 05 1月 2019 01:42)

    『純粋理性批判』も「超越論的分析論 第二篇 原則の分析論」まで来ましたが、こんなことを書くのも、少しでも読もうとするモチベーションをあげるためにすぎません。哲学学校の掲示板だから書いています。
     しかし、目指すのは「哲学と生活の結合」です。新しい年になって「食と運動」の重要性を再確認しています。特にインドアの私は運動もしなくては健康に過ごせないと昨年しみじみ感じました。生活の範囲が、だんだん狭まっている私。もう少し外に出て、もっと散歩するぐらいはしないといけないと思っています。
     朝ドラ「まんぷく」のモデルの安藤百福さんは『転んでもただでは起きるな!』で「食とスポーツは健康を支える両輪である」
    「人間は食べていかないと何もできない。空腹が満たされてはじめて、音楽や絵画や文学を楽しむことができる」と述べています。哲学も、そうでしょう。
     また、今年は「全力とほどほど」、つまり、アクセルとブレーキを踏み分けながら「ゆっくり力でいい年をおくりたい」と思います。

  • #1736

    義積弘幸 (金曜日, 14 12月 2018 20:43)

    『純粋理性批判』は「第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移りゆき」まで読了。と言っても、私の場合は傍線を引いているだけかもしれない。接続語に注意して、断定にさらに注意するだけの読み方である。どれだけ理解できているかは分かりません。しかし、眼で文章を追うだけでも独学だから仕方がない。これからも、この調子で行くしかないだろう。

  • #1735

    義積弘幸 (月曜日, 03 12月 2018 03:15)

    『死霊』七章「最後の審判」を読む。食われるものの悲哀と食うものの悲哀、食わざるを得ぬ生の悲哀という言葉に出会う。これは「ひかりごけ」について書く時、使えると思った。ここはイエスとサッカの食べ物を食ったことに対する「審判」なのだが、前半は、まさに「大審問官」の形式をとっている。
     しかし「大審問官」が人間の自由について問いただしているのに対して「最後の審判」はイエス自らの自己保存にまで深くつきつめている点すごいと思う。「聖書」の言葉もうまく引用されている。こう裁かれては逃げ場がないだろう。もちろん「大審問官」と同じく「最後の審判」でもイエスは沈黙しているが。というより、前者ではイエスは確かに登場しているが、後者の場合イエスは本当に登場しているかどうかは、わからないが。

  • #1734

    義積弘幸 (日曜日, 25 11月 2018 00:35)

    『純粋理性批判』・超越論的分析論に入る。悪文と言われるカントだが、下記から、ここまでは明晰だと思うのだが。少しづつ読んで行こうと思う。

  • #1733

    義積弘幸 (木曜日, 15 11月 2018 15:25)

    『純粋理性批判』、長らく止まっていたところから、少し前に進む。まだ、次の「超越論的感性論の結び」までは、今のペースでは少し遠いが、きっかけができたことは大きい。

  • #1732

    義積弘幸 (水曜日, 17 10月 2018 07:08)

    『純粋理性批判』は「第八 超越論的感性論のための一般的注解」の途中で、長らく止まっている。今は別なことに興味があるし、そちらが優先。しかし、必ず読破してみせる。

  • #1731

    白木銭だいば業者しげじ (日曜日, 10 6月 2018 05:14)

    もこくを曝す全てごほんぶつわたくしに勝ちたい役職を地位に置換した


    赤澤が無許可で早川中西対角線にっの社長嫌い三原看護士一族嫌われていることに気がつかなければならない破門

  • #1730

    嫌い後ろ楯許さない切り落とす (月曜日, 04 6月 2018 15:40)

    内閣府に花束いらない切り落とす


    国家公務員に受かるか臨時以外切り落とす気に入らない地位狙いスーツ切り落とす同じ違います役職許さない切り落とす母子家庭離婚地位狙いモデルを曝す同じ違いますくびれなしみーは寸胴くま会長しげじのけんぞくの女性がじむ対角線体で誘う許さない切り落とすくびれに親戚違いますスーツ切り落とすもくてきが違うこが切り落とすあくたーす切り落とす岡村切り落とすふつうぜんげんさんになんか花束いらないと思いますお忙しいでしょうから着払いでよろしいかと思いますぶらっくきゃっ男性どうし

  • #1729

    義積弘幸 (日曜日, 29 4月 2018 02:06)

    長い間、そのままになっていた稲岡義朗さんの「新しい法然27号」をやっと読み終え、新しく届いた「新しい法然28号」を今読んでいます。背後に2年前の熊本地震の体験があり、たいへん深いものがあります。
    27号には「生き直し」という「法然上人の生涯に学ぶ」というのがあり、稲岡さんは「法然上人起き上がり小法師」を作って「元気を出しましょう」と呼びかけたそうです。そして「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」と願ったそうです。自ら被災者でありながら、熊本の被災地を回る稲岡さんでした。

  • #1728

    高根英博 (水曜日, 11 4月 2018 16:25)

    義積様
    ありがとうございます。Facebookもほぼ備忘録状態ですが、日々の事柄を記録しています。なぜ義積さんととながらないのか不明ですが、これからもよろしくお願いします。最近はシニア料金を利用して、いろいろ出かけるようにしています。シニアになったことを最大限利用して、がめつく生きています。

  • #1727

    義積弘幸 (日曜日, 08 4月 2018 01:17)

    高根さんのフェイス・ブックより
    1月1日、フランクフルト学派シリーズのチラシから始まる。そして、『チボーの家』DVD4枚鑑賞とのこと。私は、居酒屋「チボーの家」には、いい思い出がない。泥酔して、吉田富夫先生にからみ、帰りのタクシーの中で嘔吐したからだ。
     自分の発表のチラシもあった。早く中味が知りたいと思う。『唯研』などで。『共産党とは何か』(スターリン批判?)新訳あり、立命館大・西川富雄先生の本あり、私の好きなミケランジェロについてもあり、私の友達の関係している「人民新聞」あり、『苦海浄土』(シェア)あり、しかし、相変わらず、東アジア(特に、朝鮮半島)に目は向いている。
     面白いところでは、トランプと金正恩、そしてアベのロシアン・ルーレットのマンガがありました。
     以上、プライバシーの侵害です。すみません。

  • #1726

    義積弘幸 (火曜日, 03 4月 2018 05:25)

    カント「空間・時間」
    〇 空間についての根源的表象はア・プリオリな直感
      純粋直観でなければならず、経験的直観であってはならない
      外的直観が可能である感性の主観的条件
      
    〇 時間は、すべての直観の根底にある一つの必然的表象
      時間は、ア・プリオリに与えられている
      時間は、感性的直観の一つの純粋形式
      カントが教えるのは、時間の「経験的実在性」客観的妥当性
      時間は、内的直観の現実的形式
     たんなるメモである。また悪い癖が出てしまった。

  • #1725

    義積弘幸 (月曜日, 02 4月 2018 11:38)

    ベルグソンの時間論を検討するため、中島義道氏の『「時間」を哲学するー過去はどこへ行ったのか』(講談社現代新書)を、その部分だけ読んだ。初めは肯定、あとは批判だった。中島氏は言う。
    《本当の時間が「純粋持続」のような非空間的純粋結晶だと考える必要はない》(p25)
     今、カントの「時間論」を読んでいるが、難解である。中島氏の批判は、カントにも少し及んでいるが、212ページの時間論だが、私は、今、40ページで止まったままである。

  • #1724

    義積弘幸 (日曜日, 25 3月 2018 04:12)

    カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞記念講演『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスル―』(英文と対訳、早川書房)を読みました。
     84ページまでは、だいたい小説の話が中心でしたが、85ページからは、世界情勢にに話が移って行くようです。例えば「いま振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以降、私たちはうぬぼれの時代、機会喪失の時代に入っていたのかもしれません」(p89)と言います。そして「極右思想や部族的ナショナリズムが跋扈する現在」「人種差別がふたたび勢いを盛り返す気配」とも。
     「一方、私たちを一致団結させられる進歩的な大義は、まだ見えて来ていません」(p91)とも述べています。そして「60歳を超えた私は、いまかすむ目をこすりながら見定めようとしています」と言います。」
     その後、文学は重要、若い作家が頼りだと言うのです(p93)そして「多様」が大切だと言います。ひとつは「共通の文学的世界を広げていくこと」、もうひとつは「よい文学とは何かを考えること」だと述べています。そして「よい作品を書き、よい作品を読むことで、障壁が打ち破られる」(P99)というのです。
     イシグロ氏は小説家です。しかし、彼の文学が持つ意味は、世界情勢と関係せざるをえないのでしょう。私は、文学にも興味をもっており、『ドストエフスキー入門』という冊子も出版しました。だから、あえて、この本の後半の世界情勢論を紹介した次第です。

  • #1723

    KSASAGE (金曜日, 23 3月 2018 00:06)

    保井温(やすいゆたか)さんが、「歴史倫理学」を提唱しておられる。
    しかし、保井さんの関心事は、「従軍慰安婦」問題や「南京大虐殺」問題である。
    そして『聖書』である。
     しかし、それらは「歴史」とは違う次元の事柄ではないだろうか。
    前者は同時代の問題である。まだ関係者が生きているのだ。歴史問題よりも国際問題であり、政治問題ではないだろうか。後者は、宗教の問題だ。

  • #1722

    KSASAGE (金曜日, 16 3月 2018 23:57)

    今週出た『季報唯物論研究』最新号の巻頭エッセイとして、
    「ポピュリズムの理論のために」という小稿を書きました。
    内容的には「ポピュリズムとは何か」についてです。

     日本の新聞には「ポピュリズム」を〝大衆迎合主義〟としてとらえているのがありますが、とんでもない間違いです。しかし、「ポピュリズム」を〝大衆迎合主義〟だと思い込んでいるひとが結構いるようです。新聞ばかり読んでいると馬鹿になりますので、注意してください。

  • #1721

    義積弘幸 (日曜日, 11 3月 2018 00:23)

    139ページの
     そうした学を区分するさいに最も重要な着眼点は、なんらかの何か経験的なものを、それ自身のうちに含んでいるいかなる概念も、全然入り込んではならないということ、あるいはア・プリオリな認識は完全に純粋であるということである。
     は重要な部分であると思う。。
    しかし「超越論的感性論」において「空間」と「時間」が出てくると理解できないような気がする。
     それに、こんなことを書いていて、何の意味があるのだろうかとも思う。わかっている人は、すでに理解されているのだから。だから、読んだところを、ダラダラと書くことは、私のアリバイ作りにしかすぎないだろう。もうちょっと、マシなことを書きたいと思う。また、他の方の、もっと有益な文章を読みたいと思う。
     とにかく、私は浅学・独学でありながら、細かく分けすぎて、ダラダラ書きすぎていたことに、今頃になって気づいた次第である。お許し願いたい。

  • #1720

    義積弘幸 (火曜日, 06 3月 2018 20:39)

    118ページからの「Ⅵ 純粋理性の普遍的課題」は重要なようだ。
     純粋理性の本来的課題=いかにしてア・プリオリな綜合的判断は可能であるか?という問いのうちに含まれている
     純粋理性使用の可能性=次の問いの解答
     いかにして純粋数学は可能であるのか?
     いかにして純粋自然科学は可能であるのか?
    形而上学について
     いかにして形而上学は自然素質として可能であるのか?
    最後の問い
     いかにして形而上学は学として可能であるのか?
     などの問いが130ページまで列挙されているからである。これらは、読まれた方は当然わかることだろう。
     カントの文章は悪文とされるが、このように明晰に書かれている部分もあるように思う。
     とにかく私としては少しずつでも読むことに如くはない。

  • #1719

    義積弘幸 (月曜日, 05 3月 2018 21:46)

    平凡社ライブラリー『純粋理性批判(上)』の「序論」107ページまで読んだ。
     前半は、経験的認識とア・プリオリな認識の対立のように読めた。
     難解なのは、分析的判断と綜合的判断との区別であった。
    「分析的判断は、述語と主語との結びつきが、そこでは同一性によって思考されるような判断」、「この結びつきが、そこでは同一性なしで思考されるような判断」が綜合的判断(P99)と書かれてはいるが、よくわからなかった。
     まあ、浅学の男が独学で、少しずつでも読んでいるということでお許し願いたい。

  • #1718

    KSASAGE (日曜日, 25 2月 2018 00:11)

    今日は佐野先生の、難しいハバーマスの理論の分かりやすい解説で、大変有益だった。

     フランクフルト学派には、第一世代、第二世代、第三世代がある。
    第1世代は、ホルクハイマー、マルクーゼ、アドルノ、ブロッホ、それにフロム等々である。第2世代がハバーマスで、第3世代がホーネット。

     世間ではそのように分類されているのだが、しかし、あくまで第1世代中心にフランクフルト学派は、理解されている。

     それで今日の質問で、「第1世代はラディカリズムであり、否定の哲学としてとらえられたヘーゲル、そしてマルクス、あるいはフロイトなんかが重要のな思想的源泉であり、「現実」(=「非真理」)のラディカルな否定の立場であったが、第二世代は穏健である、否定主義でない、これを「フランクフルト学派」とよんでいいものか?」というのがあった。

     佐野先生は、「ハバーマス自身が、自分を第1世代と同様にとらえてもらっては困ると言っている」と、質問に答えておられた。

  • #1717

    KSASAGE (金曜日, 23 2月 2018 21:22)

    明日の哲学学校の催しは、佐野誠さんが、ユルゲン・ハバーマスについてお話しくださる。私はこの先生の本を2冊読んだ。いずれもマックス・ヴェーバーについての本だ。

     この先生のマックス・ヴェーバー論やカール・シュミット論はぜひ聴きたいところであるが、明日のテーマは、「ハバーマス『コミュニケーション的行為の理論』を読む」である。

     ヴェーバーやシュミットは 闘争の理論である。
     これに対してハバーマスは「コンセンサス」(合意)の理論である。

     またハバーマスは、マルクス主義的社会主義(共産主義)ではなく、穏健社会主義としての社会民主主義で、社会主義とリベラリズムのアマルガムのような立場である。


  • #1716

    KSASAGE (金曜日, 23 2月 2018 14:19)

    「フランクフルト学派」というのがある。

     ドイツのフランクフルト(ソーセージで有)にフランクフルト大学があって、そこに社会研究所がある。マックス・ホルクハイマーが所長になって、そのメンバーたちをさして、「フランクフルト学派」と呼ばれている(広義と狭義があるが)。

     「フランクフルト学派」結構有名である。高校の『倫理』の教科書にでていたり、公務員試験に出たこともアル。

     ホルクハイマー、マルクーゼ、ブロッホ、アドルノなどが有名である。
    ノイマン、ポロック、キルヒハイマーもそうだ。

     ノイマンやキルヒハイマーは違うかもしれないが、
    マルクーゼやアドルノやホルクハイマーは、
    いわば、一種の<否定主義>の理論である。そして彼らの全員が、社会主義の立場であった。


  • #1715

    義積弘幸 (月曜日, 19 2月 2018 23:03)

    平凡社ライブラリー『純粋理性批判』(原佑訳)の序文が、やっと読めた。「第一版 序文」は、わかりやすかったが、「第二版 序文」の前半3分の2ぐらいまでは、わかりにくく長い間ほうっておかなければならなかった。
     再び読めたのは、マーラーの交響曲を聞き始めてから。以前からだが、カントとマーラーの交響曲は合っているような気がする。しかし、まだ何と言っても「序文」。本格的なのは、これからだ。おそらく、もっと時間がかかるだろう。
     『実践理性批判』『判断力批判』は、すでに読んでいるので、ノートを作りたいとも思うのだが、重要箇所はわかっているのだが、文章にするのは難しい。私は論文など書くつもりはなく、エッセイを書きたいのだが、よほど簡潔にしないと、そういう文章にならない。気楽に書けばいいのだろうが、カントの叙述を易しく書くことは難しい。おそらく『わがカント』(仮題)と言う形にするには、もう数年かかるだろう。その前に仕上げる構想のエッセイ集もあるし。
     昨年末に『キルケゴールと音楽』という冊子に、キルケゴールを中心に、ドストエフスキーとルオーを対比させて、自分の思いをまとめたが、ほとんど反応はなかったが、批判もなかったから、まあ、ひどい誤りはなかったのではないかと思う。しかし、キルケゴールをまとめるのも大変だったが、カントについてまとめるのは、さらに困難を極めるだろう。まず、構想が浮かぶのを待つところだろうが、とにかく『純粋理性批判』を読んでからだ。

  • #1714

    松岡幹夫 (火曜日, 13 2月 2018 03:10)

    親を馬鹿と認めなければ抹殺号令とは
    3年前前盲ろうの全国協会事務局長庵さんが時自宅に来たら突然手話通訳差別が入った。振興局の相談員はここにいるとなだめるが、完全沈黙では証人も作れず、そのチャンスに法務局は捜査権がない。
     全国大会は妨害対策に挨拶状と個人的手紙も出していたが結果は岩手も全国の友の会も知っている人は誰も現れない(合わせない)。
     大会後は全国に訴えたが誰も返事しない。一度にこれだけ動かせるのは知事しか居ない。しかも勧めた庵さんが簡単に口説かれていた。全国の友の会にしてもあいつに関わるなとされていた。
     知事が黒幕とは。栃木の妨害は知事同士の密約だったのか。
     息子も入れて6人の参加なのに何の効果も無かった。
     知事が相手では諦めるべきか。と言っても妨害の説明は何一つ来ていない。一人で調べることにした。
     暴走目こぼし権があったらと問い合わせした。法律関係だけ答え後の全国の社会福祉協議会は30も全部沈黙した。知らないからで無く喋れないことを示していた。法律関係の返事はそんなもの無いと言うだけ。似たものが他にもあって喋れないらしい。
     それにこれは岩手で暴走があったことを暗示している。非難と失笑、後ろ指が岩手に向けて飛んだことだろう。
     11月末頃一関社協に行って通訳差別の説明を求めたが長すぎて読めないとごまかす為全国への問い合わせを見せたら一関は和解したがって居ると言うが完全沈黙では和解は出来ない。嘘だと判る。
     そのまま帰ったが話は利用することにした。
     12年前の県庁の朽木課長は社会参加妨害の抗議に対して親父を馬鹿だと認めたらと言っていたことから既に亡くなっているし12年の妨害で疲れから好きなだけ馬鹿と言ってもいいですとしてその代わりに今までの圧力の廃止を求めた。期限付き2回の和解要求です。
     やっぱり無視。それで全国40に問い合わせの形で岩手の暴走を話した。そして1週間して福祉課に又話したがまだ無視している。
     完全沈黙では説明も出来ないし証拠は作れない。諸刃の剣みたいな法律です。証拠あるかと言う訳だ。それも障害者の団体の特権らしく厚生労働省が認めている態度で、法の下に何人も平等だと障害者110番の弁護士が言う。法務省も知っているはずでも完全沈黙では証拠は作れず動かない口実になる。一般には公開されないのではないか。理屈はともかく完全沈黙では初めから抹殺しか考えていない。障害者一人くらいどうでもいいとする決断でないか。こちらは社会参加を求め妨害はもう12年で12回になり辞めて欲しい。
     障害者の団体の暴走を隠すために暴走で障害者個人はどうでもいいと知事が決断し厚生労働省も全国の社協も認めているとは。
     復興を叫ばれる岩手だけの特権なのか。



  • #1713

    松岡幹夫法律の矛盾 (土曜日, 10 2月 2018 04:07)

    暴走を正義と気取る岩手のボランティア達への疑問
    今から12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。その後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心も押し付けて行った。親を馬鹿と言う出所は岩手県聾唖協会現会長だった(当時次期会長)。全通研も県庁も読み書き出来ない聾唖者の勝手な猜疑心から来たと知っていた。親父と口利いたことも無い。
     本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもしないで親を馬鹿にして全てを白紙にした。
     それから別の団体に行こうとして相談員は多忙で手紙で進めた。
     内定した頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さんひとみさんの悪口妨害が入り内定は取り消された。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。そして山形の姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言う。
     更に県庁に抗議したら当時の福祉課朽木課長は親を馬鹿だと認めたらとメールで言い出した。県の看板団体は暴走でも隠すことしかしない。既にあちこちかん口令を敷かれ社会参加はさせずどこの団体も行かせない。関わった人も団体も全て沈黙させた。暴走を暴走で隠し続け暴走で正当化された。密告も脅迫電話もお咎め無し。
    それから12年の間に12の社会参加妨害があった。栃木と交流も岩手から関わるなと悪口が入っていた。
     前の年の盛岡での講演会も通訳妨害されていた。
     そして3年前全国協会が家に来て全国大会に参加しろと。ところが全国協会が来ていたことがばれて圧力は激しく通訳差別が出た。 息子も心配して6人で参加したが岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。それどころか勧めた全国協会も全国の友の会も口説き伏せられていた。しかも黒幕は知事だった。
     説明の来ないまま諦めるのか。自分で調べた。
     好き勝手な暴走は合法的か。法律関係だけ暴走目こぼし権なんて無いと。他は社協が全国30も全部沈黙。これは喋れないことを意味して居る。看板団体はばれなければいいとする特権があることを示している。暗黙の了解とする説明不能の法律だろう。聾唖者へのおだてが暴走を招いている。
     12年も圧力に耐えて来た。これ以上はごめん。親は亡くなっているから好きなだけ馬鹿と言えとして、その代わりこれまでの圧力は全部廃止にして頂きたいと和解を求めたが無視している。。
     今まで完全沈黙は抹殺だけ考え証拠も作らせない暴走隠しは続けられる。しかも看板団体だからと合法なのか。

  • #1712

    高根英博 (日曜日, 21 1月 2018 12:36)

    昨日、ようやく研究発が無事出来ました!ありがとうございました。前回のドタキャンのおしおきか、教室の壇上での講演でした。やりにくかったです。A3で7枚のレジュメをこなしました。西田幾多郎、梯明秀、野間宏、埴谷雄高、市川白弦、水上勉、大燈国師、オノヨーコ、法然、親鸞、松本史朗、袴谷憲昭、柳宗悦、鶴見俊輔などを取り上げました。大忙しでした、取り止めもなくてすいませんでした。講演の最初に映像でジョンケージ作品の「4分33秒」の演奏の様子を流しました。

  • #1711

    一関市 松岡幹夫 (月曜日, 15 1月 2018 13:53)

    通訳差別、社会参加妨害は当たり前か
     昨年11月から『暴走目こぼし権』に付いて問い合わせを全国30以上の社協に出したことで事前に法務局と障害者110番の弁護士にも聞いていて法テラスと法務局だけ返事しました。無いと判っても疑問だらけでした。知事の暴走の理屈があるとしたら暗黙とされる法律でないかと。自分の口からは言えないという形です。
     法務省は何度質問しても法務局に話せと言う。厚生労働省は質問一つ答えない。だからただの問い合わせにした。
     暴走目こぼし権と言わなくても似たものはあるはず。
     障害者の団体は暴走でも完全沈黙が保てたら不問にするというのはあってもおかしくない。知事のばれなければいいとする独断もあると思うし、更に知事には緊急時の強権発動もあるはず。その緊急にあたる東日本大震災にしてはこれは自分の友の会を
    辞めた後の3年後です。息子は当時仙台の大学で20歳でした。そのときの大震災です。しかもこの時でも岩手からボランティアは誰も来ない。
     そして今は27歳。これで緊急時の強権と認められたかのように法務省も厚生労働省も納得して白紙化を容認したのでないか。
     だとしてもこちらに説明は12年も来ていなく誰一人関わらせずどこの団体も行かせない。社会参加は口封じから全て妨害した。友達は全部取り上げた。どう見ても暴走隠しです。厚生労働省も法務省も理屈を知っていたら説明しても当然のはず。沈黙も理屈のうちですか。暴走の正当化を容認している。
     3年前盲ろうの全国協会が来て全国大会に参加しろと言うが来た事がばれて通訳差別も激しくされ大会では岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。和解より抹殺しか考えていない。
     大会後に全国の友の会30に訴えてもどこも返事しなく岩手に口説かれていた。これでは居られなく退会して別の団体を探し入会しました。よりによって厚生労働省がバックに居てはどうなるか判らない。日本身体障害者団体連合会です。岩手にとって障害当事者が他所の団体に行く事は恥と見て妨害する。
     身内にいい加減諦めて馬鹿にされていろと言うことは一生負け犬扱いの差別しか来なくなります。看板団体優先にたかが障害者一人と見て ばれなければいいとして完全沈黙で囲んでいたが粘るため東日本大震災を強権代わりにしたのだろう。復興も叫ばれている。これが法務省と厚生労働省、全国の社協の態度として現れたことになります。
     復興優先だぞとなだめるのさえ出かねないがそんなもの出なく抹殺だけ考えた理由は辞めた理由にデマを流したことは取り消せなくて後へ引けなくなったと思う。こっらちはとっくに時効で告発は諦めて居る。完全沈黙破りはこちらから話すしはかない。
     聾唖協会、全通研がそれぞれ本家も口説き伏せて聾唖連盟や全通研本部の京都も口説き伏せている。一人対残り全部にされた。こんな立場で後へ引けません。
     全国の社協から失笑も聞こえるように電話されたら知事は怒り狂う。当然通訳協力者にも一関社協にも情報センターにも相手にするなと圧力は強められたと思う。どっちも答えなくなった。
     告発より社会参加妨害と差別の禁止を求めます。
     新しい団体は障碍者の社会参加を主要課題としています。
     騒ぎの元になった県聾唖協会石川会長は地元一関で8人の好きだから正しいとするグループにガードされています。県庁も全通研も読み書き出来ない人の勝手な猜疑心からだと知りながらです。










  • #1710

    高根英博 (月曜日, 01 1月 2018 21:15)

    明けましておめでとうございます。20日に哲学学校新年会と、私の研究発表をあらためておこないますのでよろしく。私の肺炎も一ヶ月ぶりに病院で検査をして全快の言葉をいただきました。いろいろ迷惑をかけて申し訳ありませんでした。大晦日は普通に紅白歌合戦を見てました。安室奈美恵が女神状態でした。てなところで、今年もよろしくお願いします。

  • #1709

    義積弘幸 (月曜日, 01 1月 2018 00:24)

    みなさん 明けましておめでとうございます。
    年末は、読み残していた『判断力批判』の「90」から最後までを読み切ることができました。ほとんど理解はできませんでしたが。
     次は、主著は『純粋理性批判』を原佑訳で読むだけですが、さらに難解そうです。果たして、読むだけでも読めるでしょうか。じっくりゆっくり読み進みたいと思います。
     今年が、みなさまにとって、よい年になりますように。

  • #1708

    元岩手県盲ろう会員松岡幹夫 (月曜日, 27 11月 2017 23:24)

    相手に暴走目こぼし権があったらどう対応しますか
     38年前仕事で仙台から一関に移り同じ仕事で聾唖者と仲良くなりいずれ家に遊びに来る約束を交わしていました。仕事を一緒にやろうという話も出ましたがそれが挫折してもこちらは目も悪くなって異存はなく、友達として仕事の機械をただで上げた。そしてお返しは望まないと念を押しています。
     ところが何年待っても来なくて親父と喧嘩になった。騙されたのだと言うのをそんな人でないとやり返して催促しても来なく訪ねるといろんな人が忙しそうですとさえぎった。
     心変わりしたのかと半場諦めて他の人と付き合って来ました。それが11年前に奥さんが盲ろう者友の会の通訳になったと聞いてファクスしたら今までのことは嘘だと判り怒ったら次期県聾唖協会会長婦人の一声で友の会にあいつを黙らせろとされて副会長が発言禁止にされ、更に小笠原利行事務局長がお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言い出した。これには馬鹿らしいと退会しました。後から全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心を押し付けて行った。親父を馬鹿と言う出所は石川会長だった。
     県庁も全通研も読み書きの出来ない知恵遅れ聾唖者の勝手な猜疑心からだと知っていた。石川君は親を馬鹿にして全てを白紙にし、約束守る事も詫びる事もしない。県にとって石川君も利行さんも県の看板の為辞めた理由はデマを流しかん口令で口封じされていた。
     最初の別団体県難連に行こうとしたら相談員の密告で友の会事務局長の奥さんのひとみさんから悪口妨害され内定が取り消された。
     これには怒って抗議したら大本家のおばあさんに脅迫電話された。大本家は山形の姉を呼びだした。姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなという。この後岩手県庁に抗議したら課長から親父を馬鹿と認めたらと言い出した。既にかん口令は広げられ更生相談所も社会福祉協議会(県本部)も障害者の社会参加推進センターも地元一関の社会福祉協議会も更に一関の身障協は口封じから入会お認めない。相手にするなと言う輪は広がり社会参加は妨害は11年で12回になった。関わった人も団体も全て沈黙させて友達も全て取り上げた。果たして暴走目こぼし権はあったとしてどう対応しますか。 岩手は説明も11年来ていない。厚生労働省は復興が叫ばれてか完全沈黙が保てるなら目を瞑るかのように質問も寄越さない。通訳差別も始めた。果たして暴走目こぼし権はあるでしょうか。完全沈黙で証拠も作れず諦めて社会参加だけにしても盲ろう者が友の会の手も借りずにあちこち行くのも県の面子に関わると勝手な理屈から妨害する。辞めたらどこへ行こうと勝手ではないか。看板団体の暴走を隠すために強権発動して障害者の一人くらいどうでもよいと社会参加は11年で12回口封じから妨害している、

  • #1707

    高根英博 (水曜日, 22 11月 2017 16:49)

    みなさまには迷惑をおかけして恐縮です!
    哲学学校発表当日、経済大に行こうとしたのですが、
    フラフラで途中で倒れてしまいました。家の近所の路上で。
    で、救急車で病院に運ばれました。
    肺炎と脱水症状ということで、携帯で田畑さんに連絡しようとしたのですが、
    電源が入っていず、さらに電源の入れ方を熱で思いつかず、
    ギリギリでやっと田畑さんに連絡がついた次第。
    面目ない!
    後、入院やら仕事復帰やらで、バタバタしていて、
    この掲示板への連絡を忘れていました。
    すいません!迷惑をおかけしました!

    当日、参加していただいたみなさん、本当にすいません!


    高根

  • #1706

    BYODO (木曜日, 16 11月 2017 07:52)

    高根さんの件では、皆さまにご心配おかけしています。
    聞くところでは、深刻な病気とかではなかったようで、一週間ほどの入院で復帰されるそうです。あと数日でしょうか。
    ご本人は、できなかった発表を日をあらためてぜひやりたいなど意欲を見せておられるようですが、しばらくは無理をしないようにと言っています。
    ということですので、どうぞご安心ください。

  • #1705

    TSZINHO (木曜日, 16 11月 2017 06:04)

    土曜日にメールを出したのですが、高根さんからはまだ返事が来ません。
    そのまま入院したものと思われますが、どうな具合なんでしょうね?

  • #1704

    KSASAGE (土曜日, 11 11月 2017 18:21)

    今日の哲学学校では高根さんのお話を聞けるはずでした。
    ところがオープンの時間になって、電話があり、
    高根さんが救急車で運ばれたとのことです。
     ちょっと心配です。

  • #1703

    元岩手県盲ろう会員松岡幹夫 (金曜日, 13 10月 2017 22:22)

    障害者への法的配慮の解釈とは
    岩手県一関市東山町の聾唖者で普通校卒。それが親譲りの障害で目も足も悪くなり小脳萎縮で一人暮らしです。
     障害者の団体は完全沈黙が保てるなら目こぼしになる特権を持っています。それは厚生労働省も認めています。
     けれどそのためには障害者個人の人権は無視してもいいのですか。辞めた理由への口封じから社会参加妨害は11年で12回目です。 岩手の盲ろう者友の会は和解は暴走がばれるからと抹殺しか考えていない。完全沈黙では証拠は作れなく法務省も動けないばかりか知っている様子。更生相談所、社会福祉協議会(県本部)、障害者の社会参加推進センター、地元東山を除く(原因が親を馬鹿と認めろと言う事で、親父は地元の民芸品で現代の名工に選ばれて知事表彰を受けているからかん口令は地元まで来るはずがない)各地の社会福祉協議会もかん口令が入っています。地元一関の身障協も入っていて入会は認めない。一関社協は通訳差別も強行した。更に要約筆記の会も通訳依頼は無視し続け、盲ろう友の会は受信拒否が何年も続いています。これは全国大会参加を控え差別、完全沈黙を徹底された。看板団体の暴走隠しにこちらの人権は無視したことになります。暗黙の了解とするこんな法律に全国にもあるとしてどう対応しているのか全国の社会福祉協議会に問いかけました。
     法律の解釈違いでないか。辞めたらどこへ行こうと何をしようと関係ないはず、それが完全沈黙でばれなけれはいい感覚で暴走隠しに暴走している。
     行き着くところ障害者の団体はそのハンディから法律に触れる機会が多い。法律は健全な人に合わせて作られている。法を曲げなければ通らなくなる時が来る。だから初めは聾唖者の言い訳は当てに仕切れずそれが次期会長だからとゴマすりから親を馬鹿と認めろと言う友の会事務局長小笠原利行さんだけ責めて来た。退会したらどこの社会、団体に行こうと関係ないはずが暴走目こぼし権(説明不能であるのかどうか)を盾に暴走を繰り返し容認されて来た。通訳差別や完全沈黙で友達まで全部取り上げた。
     こちらがやったのは掲示板に書いた事だけ。それは批判も反論も自由だと言うのに妨害しか来ない。しかも完全沈黙では証拠は作れない。岩手の看板団体だからと言う暴走目こぼし権(障害者向けの配慮であって健常の通訳向けとは言えない)でなくただの暴走になる。石川会長も利行さんも岩手の看板の面目だからと暴走を目こぼしにしてかん口令を敷いた事になる。説明抜きで知事から強権発動されたことになります。11年に社会参加は12回妨害されています。辞めたら何も関係ないはずではないか。共に歩むとしての同権だとは虫がいい。ばれなけれはいい感覚の暴走を暴走で隠した。

  • #1702

    TSZINHO (金曜日, 13 10月 2017)

    相変わらず、日本では「ポピュリズム」を「大衆迎合」主義(政治)と解釈しているようです。
    しかし、これは国際定義として間違っているだけでなく、現象確認としても間違っています。
    「ポピュリズム」を「ポピュラリズム」に変えたとてやはり間違ってます。

    本当に大衆に迎合しているのなら、迎合される大衆側に政治的な主体性があるということだし、ある意味民主的ともいえますよ。
    しかし、小泉も橋下も小池も断じて「大衆に迎合」してないのですよ。それはトランプとて同じでしょう。
    彼らがやっていることは「大衆の扇動」なのですよ。

    つまり、彼らの起こした政治現象の主体は彼らにあり、大衆は客体的存在に過ぎないのです。
    この点で日本におけるポピュリズム論は決定的に間違っています。
    やはり、ポピュリズム論には視点操作性が感じられ怪しいです。
    ポピュリズム論自体が広告政治であり世論操作だと思います。

  • #1701

    高根英博 (水曜日, 11 10月 2017 19:28)

    義積さん、ありがとうございます。いまだにfacebookが見られないのはどうしたもんでしょうね。古いテーマですが、西田と埴谷で話します。まあ、人に来てもらいやすいかな、というだけのタイトルなんですが、画面表示も出来る様ですので、みなさんに作品を見ていただけたらと考えます。よろしく!

  • #1700

    KSASAGE (月曜日, 09 10月 2017 16:12)

    「組織なかで規則や命令を実行したのだ、そうしただけだ」というアイヒマンのいいわけ―アイヒマンの弁明」と呼びましょう―もそうだし、ましてや命がかかった収容所の中での「協力」―これは「自己保存」の権利、ホッブズの言う「自然権」の行使と言えなくもない。
     今の日本の現状に安居して、アイヒマンや 「CAPO」を批判するのは易しい。
    しかし、可能性としては、わたしも「アイヒマン」です。そしてわたしも「CAPO」です。

  • #1699

    TSZINHO (日曜日, 08 10月 2017 13:40)

    昨日の講座の感想ですが、「ラディカル民主主義」も定義がはっきりしていないとのことで、「ポピュリズム」同様に記号化された言葉だけが流通されていくというのはいかがなものかと思いました。

    また、「ポピュラリズム」は「ポピュリズム」に含まれるとのことでしたが、果たして、それで正しいのかどうか?
    ポピュラリズムとは「広告政治」だと私は思っていて、それはポピュリストでなくてもやっていることでしょう。
    たとえば、民主主義ではない北朝鮮の権力者であっても民衆の支持を得る必要はあるし、そのために広告政治をやる必要があるし、現にやっているわけです。
    つまりは、広告政治の才能があるかどうか?あるいは、広告の専門家であるマスコミや広告代理店のサポートがあるかどうか?の違いだけのように思います。

    日本の政治の話も出ましたが、小泉劇場、橋下劇場、そして、今の小池劇場も、私はマスコミの関与なしには語れないように思いますよ。
    ポピュリズム論、および、ポピュラリズム論も、ある意味、大衆にその主体があるとの認識であり議論なわけですが、果たして、それで正しいのか?

    小泉も橋下も小池もいずれもマスコミがバックアップしているというか、むしろ、マスコミが主体となっていると思いますよ。
    逆に、実力的に見て本来なら長期政権を樹立していてもおかしくない小沢一郎が、マスコミのバッシングにより、まるで社民党と同じようにどんどん小さくなっていくことと考えあわせると、いかにマスコミの力が絶大であるかを示していると思いますよ。

    こういった情報化社会の権力構造や広告政治に問題意識を持つべきところを、何か、別の視点へ操作されているような危惧をポピュリズム論やポピュラリズム論には感じます。

  • #1698

    TSZINHO (日曜日, 08 10月 2017 11:51)

    KSASAGEさん、ナチスに協力することによって命拾いしたユダヤ人のことなら「CAPO」ですね。
    戦後、トロツキーの孫がイスラエルで右翼になっていて、左翼からはCAPOと呼ばれていたそうです。
    「ユダヤ人のくせにナチスみたいなことをするな!」という意味でしょう。

    それにしても、死刑制度がないのに、「アイヒマンは別だ」として死刑を強行してしまうイスラエルもいかがなものか?
    裁判も公正とは言い難かったようですしね。

  • #1697

    元岩手県盲ろう会員松岡幹夫 (土曜日, 07 10月 2017 23:25)

    社会参加妨害はいつまで続くのか
     友達になろうとした聾唖者が親を馬鹿と言い出しそれが次期県聾唖協会長の石川隆君の為ゴマすりから岩手県盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんがお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言い出し、馬鹿らしいとして退会した。辞めたら全通研がなだめ改心を押し付けて行った。全通研は石川会長が読み書き出来ない勝手な猜疑心から来たことだと知っていた。
     それが県の看板の為辞めた理由はデマを流し関わった人も団体も全て沈黙させ友達も全て取り上げた。社会参加は全て妨害した。完全沈黙では証拠は作れなくかん口令は全国の友の会にも及んだ。
     辞めて2年位で全国大会の中で辞めた理由への釈明が岩手の友の会に求められた(欠席裁判)。此れを嘘で切り抜けて全国に相手にするなとされた。後からかんかんに怒って来た。
     あれから9年その間に個人的ファクスを交わしていた人達は途中で切られた形を繰り返した。広島(大杉さん)。大阪(門川理事長)、栃木(福祉課など)、宮城(宮城聾唖協会)。神奈川(星祐子さん)もです。全国の友の会は障害者個人は困っても関心なく暴走しようと付き合いなれた団体を取り相手にするなと言うのも簡単に飲んでいる。釈明が原因と思うが、これには障害者の団体には隠し通せたら暴走は不問にする目こぼし権があったこと。
     号令は知事しか出来ない。8月18日からの全国大会は岩手の代表の小笠原ひとみさんが来た後は誰も来なかった。パーティもその後の交流会も。ひとみさんから相手にするなと号令掛けられたことになる。大会後は岩手を訴える手紙、ファクスで30以上を連発し100近くが一つも返事がない。全国への相手にするなと言う号令は知事でないと出来ない。県内は誰も答えない。 
     更に昨年栃木に行ったことから栃木の知事にも手紙を出していた。これも知事同士の密約でないと出来ない話です。
     知事が看板団体を守るために障害者の一人くらいどうでもよいと見ていたとは。これは障害者の団体に暗黙の法律があっことになる。それは法務省も厚生労働省も知っていたことになる。法務省は法務局に話せとしか言わない。法務局は聞くことと記録するだけ。厚生労働省は質問一つ口にしない。暗黙の法律を盾にかん口令を強行したことになる。
     石川隆会長は一関の元サークル2代から5代目会長とその取巻きの好きだから正しいとするグループ8人にガードされている。 大会には5代目会長の小野寺奈美子さんが来ていた。中には学校の先生もいる。それに警告しても無視の為教育委員か会に訴えた。所が3ヶ月無視するので文部省に訴えた。県庁からかん口令が入った事になり団体の暴走を白紙にするのと引き換えに此方の人権を奪われたこ事なります。社会参加妨害は来年も続くのか。

  • #1696

    義積弘幸 (土曜日, 07 10月 2017 20:58)

    今日、高根さんのフェイスブックを見ました。
    山本先生を偲ぶ会、ロシア革命100周年、天皇制、唯研、哲学学校の例会、憲法、そしてなんと言っても、11月11日の高根さんの「西田幾多郎と埴谷雄高」の発表予定など、どれも興味深いものでした。これはプライバシーの侵害になるかもしれませんが、失礼して書き込ませていただきました。お許しください。

  • #1695

    KSASAGE (日曜日, 01 10月 2017 00:31)

    映画の『ハンナ・アレント』を見ました。
     アレントが雑誌にアイヒマン裁判の記事を書いたわけですが、それに対してユダヤ人(ニュー・ヨークのドイツ系ユダヤ人のコミュニティが映画では良く出ていました)から大きな反発がありました。

    ユダヤ人であるアレントに向かって、「あなたはユダヤ人を批判するのか」というのですね。アレントの文章のどこが一番問題になったのか。アイヒマンを悪の権化として描かず、冷めた目で見た点でしょうか。それもあるのでしょうが、映画では強制収容所のなかで、ユダヤ人でありながら、収容所(親衛隊)に協力した,手先になった「パコ」と呼ばれる人びとのことを書いたからではないでしょうか。

     まあユダヤ人の「恥部」を書いたことがけしからんというわけですね。多くの人は、アレントがアイヒマンを「凡庸な悪」としてとらえた点を話題にしていますが、「パコ」にはあまり触れられないようです。NHK番組での仲正さんもです。

     また映画で、「アメリカをどう思うか」とたずねられたアレントが弾んだ声で「パラダイス」と答えるシーンが出てきました。『革命について』は、アメリカ革命を礼賛し、フランス革命とロシア革命とは否定的に評価。しかし、最後の章だったでしょうか、ハンガリー革命は評価しています。

  • #1694

    TSZINHO (水曜日, 27 9月 2017 15:52)

    NHKのハンナ・アーレント講座の第四回は「エルサレムのアイヒマン」についてでした。
    アイヒマン個人については私は裁判を傍聴したわけでもないし、彼に関する研究に詳しいわけでもないので、アーレントの分析で合っているのかどうか?の言及はできません。
    ただ、やはり、アーレントの分析を戦争犯罪や組織犯罪全般に当てはめるのはいかがなものか?と思いました。
    たとえば、宗教学者の丸山照雄さんんはオウム教の幹部たちを「小心な悪」と表現していましたが、そっちのケースも考慮する必要があると思います。

    なお、次回からは「歎異抄」講座だそうです。

  • #1693

    TSZINHO (水曜日, 20 9月 2017 18:43)

    NHKの番組はハンナ・アーレントの論考を無批判的に紹介し、現代にも置き換えようとするだけでガッカリしました。

    さて、政治に限らず学問も含めて、ある意味、日本ほど人民の「参加」が遅れている社会はないのに、日本の人民にはいまだに昔ながらの百姓根性というべきか、「社会はお上に作られるもの」との認識が強くあり、権威依存も強いし、お上の仕事ぶりに不満を口にする人はいても、せいぜい、「誰か変えてよ」と依存先となる別のお上の出現を求めているに過ぎないです。
    企業の株を買っても株主総会は形骸化、町内会にも出たがらないし、それは哲学学校を見ても例外ではなく、運営に関心を持たず参画しようとしない会員、参加者がほとんどです。
    つまり、日本の人民は統治への参加をまったくと言っていいほど求めてないのですよ。
    その意味ではイグレシアスの弁を借りると、日本にあるのは「ポピュラリズム」だけで「ポピュリズム」は存在していないに等しいと思えます。

    あるいは、アーレントの「大衆」定義と絡めれば、日本には「大衆」はいても「人民」はいないということでしょうか?
    ただし、アーレントの「大衆」定義でいくならば、旧日本においてもそうでしたが、「政治に無関心な人」にとっては政治への参加を強く求める全体主義社会は居心地が悪く、熱狂からも冷めた反体制的な存在の側面もあるはずで、それはまさに昔の「百姓」や、あるいは、「女性」に近く、その意味では、そんな「大衆」が全体主義社会を好み選択するという論理にはやや無理があるように感じます。
    全体主義を論じるのなら、逆に「人民」概念を用いる方が筋は通ると思います。

    アーレントの論考はどこか「哲学者」の知的選民意識に基いてる感は否めないように思います。
    よく知りもしないのに、外から見てるだけで大衆を論じるよりは、よく知っているハイデガーのナチス心酔について徹底的に論考することこそが彼女の使命であり、その方が真理に近づけたように思えます。