掲示板

コメント: 1753
  • #1753

    KSASAGE (火曜日, 04 6月 2019 11:07)

    1989年6月4日は「天安門事件」の日である。日本では「天安門事件」であるが、イギリスやドイツでは、「天安門大虐殺」と呼ばれている。英語ではTiananmen massacreで、「マサカ」が「大虐殺」を意味する。

     日本では抑制された報道が行われているのはご存知だろうか。

     まず映像である。アメリカCNNやドイツのZDFでは、流血の凄惨な画像が出てくるが、日本のテレビでは戦車の前に立ちはだかる男の映像ばかりが出てくる。NHKはじめ日本のメディアは、膨大な映像を持っているはずである。しかし、それが放送ではなかなか出したがらない。

     もうひとつは、殺されたひとの人数について、まったく触れない番組、中国政府発表の「317人」をあげ、「さらに多いという見解もある」と付言する番組。しかし、イギリスの外交青書では「1万人以上」である。朝日放送の「正義のミカタ」は、死亡者数についてのさまざまな見解をあげていた。そのなかには「3万人以上」という数字もあった。

     第3に、中国共産党批判をしないメディアもある。政府を批判するが、党は批判しないのである。あるいは共産党内に善玉と悪玉があるような感じのあつかいがある。

     天安門広場やそこへの道筋で「大虐殺」をやったのは中国人民解放軍の「第27軍」だそうで、北京を守る「第38軍」ではなかった。鎮圧のために北京の中国語が通じない部隊が選ばれたそうで、それが「第27軍」でモンゴル人の部隊といわれている。「第27軍」と「第38軍」との間で、武力衝突があったという情報もある。

     天安門広場の騒動は7週間も続いた。共産党はなかなか武力弾圧に踏み切らなかった。それは党内で分裂があったからだ。学生と人民の運動を政治利用しようという勢力もいた。
    対立が続いていたので、最終決着まで数週間かかったのだ。当時の『朝日新聞』は、その、すぐに弾圧せずに放置し続けている状態を指して、「中国4千年の智恵」と呼んでいた。

    「民主化」運動だと言われている。広場に稚拙につくられた自由の女神像が出てきた。「政府打倒」が公然と語られていた。共産党支配に挑戦したのではないと言われている。本当だろうか。

     中国では「天安門事件」について言及することはタブーである。若者には事件があったことをしらない人がほとんどだそうだ(「正義のミカタ」では番組冒頭で、大阪を観光旅行している中国人にインタビューしていたが、「知らない」という人が多く、「政治の話はしたくない」という人、だまってその場を立ち去る人もいた)。

  • #1752

    KSASAGE (土曜日, 25 5月 2019 01:33)

    「大山古墳」というのがあった。しかし、どうも仁徳天皇の御陵だということになって、「仁徳天皇陵」といわれるようになった。江戸時代のことである。現在は、教科書では「大山古墳」になっている。だれが葬られているか不明だからである。しかし、堺市役所では「仁徳天皇陵古墳」と呼んでいる。

    明治維新があり、薩摩と長州(長門の国)の討幕勢力が「新政府」でのさばるようになったころ、当時新設の「堺県」の知事には、薩摩出身の税所篤がなった。

     税所は金目当てに「仁徳天皇陵」の盗掘を狙った。それには人手がいる。しかし、側近を別にすると、まさか普通の役人を使うわけにはいかない。 犯罪行為なんだから。

     そこで税所は、大阪と奈良の境にある二上山に入って、山中にいた人びとを強制連行し、盗掘に使役した。掘り出された「宝物」は当然、売りに出された。その一部は、ボストン博物館にあるそうな。

     昔は山中で生活したり、移動する人びとが、むろん少数とはいえ、想像以上にいた。修行中の僧侶や山伏、逃亡者、そして山窩(サンカ:戸籍を持たない、漂白民)など。

     五木寛之の傑作『風の王国』(新潮文庫)は、「仁徳天皇陵」の盗掘からはじまる。山窩を主人公にした作品である。アマゾンに書評を書いたことがある。

  • #1751

    KSASAGE (木曜日, 23 5月 2019 01:21)

    会場から「階級闘争」について語る方がおられた。今の日本には、「階級闘争」がない、残念だ、という趣旨らしい。

     しかし、ムフは、階級がそのまま政治的主体として階級闘争を戦うようなことは理論的にあり得ない、というとらえ方である。なぜなら「階級」という主体は存在しない(「階級」は主体として存在しない)のだから。ムフは、「階級還元論」に対する批判者なのだ。
     
     先進国の主要政党、大政党は、中道右派の政党と中道左派の政党である。共和党と民主党、保守党と労働党、キリスト教民主社会同盟と社会民主党。いずれもアッパー・クラースとミドル・クラースとを代表する政党である。

     左派や右派の政党はなくなるか、リベラル化、中道化してしまっているので、労働者階級やアンダークラースの利害や意見は代表されにくくなっている。

     そこにポピュリズムの政治家、政党が出てきたのだ。かれらは、階級そのものを代表するのではなく「ピープル」(人民、民衆)を構成するものとして、労働者階級やアンダークラース、彼らと重なるが低学歴者の利害や意見や感情を代表していると言える。

     不法移民、移民拡大への反対。企業の外国への移転への反対。グローバリゼーション反対。いずれもこの点と関係している。

  • #1750

    KSASAGE (木曜日, 23 5月 2019 01:15)

    5月18日、「左派ポピュリズム」論を聞きに、哲学学校に参加した。私には難しくてわからなかったが、シャンタル・ムフとエルネスト・ラクラウとでは、ポピュリズムについてのとらえ方が違っているというお話であった。

     講師の先生は、どうやら「ポピュリズム」に批判的であるようであった。
    そのことと関連があるのかどうか、なぜいま、ポピュリズム現象が(日本をのぞく)各地で発生しているのかという点についのお話がなかったことは、残念であった。

     「感情」が話題になって、一部の人びと(公務員や生活保護受給者だろう)への厚遇への批判を「ねたみ」として批判しておられた。しかし、この「ねたみ」にはもっともな理由があるのではないだろうか。

     アメリカを含めて、ポピュリズム勢力は、右派であれ、左派であれ、労働者階級、アンダークラースの「ねたみ」や「うらみ」も引き受けて、民衆的な、反不平等の政治闘争を戦っていくポジションをとっているのではないだろうか。トランプ大統領も、フランスの国民戦線も、これだろう。

  • #1749

    KSASAGE (水曜日, 01 5月 2019 01:02)

    敗戦につづく、GHGの占領統治のもとで、貴族制――「華族」制という名前を持っていた、旧大名家と公家が構成――はなくなったが、天皇制=君主制はつづいた。国王とその一族、つまり天皇と皇族が、身分的な特権を持ちつづけた。

     戦後日本でも、昭和天皇の時代にはなにか鬱屈の気持ち、違和感が庶民の中にはあったが、代替わりし平成の天皇になり、天皇と国民との関係が前の天皇の時代とはすっかり変わったようだ。「よりそう」(寄り添う)という言葉がよく使われるようになった。

        「国民によりそう天皇陛下」

     これは「よりそう天皇制」だ。また国民が「天皇陛下によりそう」といった一面ある。多くの人びとが、退位を目前にした平成の天皇に「感謝」の気持ちを表明している。

     「天皇陛下、ありがとうございます」

     唱えられる政治思想のうえでの理屈(「人間はみんな平等だ」など)を別にすれば、やはり「人間には上下がある」のではないか。ほんとうは、「上があって、下がある」ということが、人間社会の自然な秩序なのかもしれない。皇室めぐる一連の喧噪を見ているとそう思えてならない。

     君主制は一種の身分制度である。日本の君主制である天皇制もそうである。そのことを知りつつ、天皇制を擁護するとすれば、この立場は、あらゆる人間の「平等」という原則、価値観と対立するのだから、この対立矛盾を糊塗(こと)する論理、便法を必要とするはずだ。

     たとえば、「日本国憲法に天皇制が、国民主権と並んで定められている」という論理はどうか。つまり、学校では明治憲法と日本国憲法とが対比的に教えられてきたが、しかし実際には、後者は前者の延長線上にあるということだ。しかし、この憲法は今や9条も含めて全面的な手直しを必要としているのだが。

     イギリスでは、君主制の存続と廃止をめぐって、いろんな議論がなされている。だいぶ前に『ガーディアン』紙で読んだのだが、選挙で国王を選んではどうかという案もある。またイギリスでは、君主制擁護論者のなかに、「観光に役立っている」というのがあった。観光に役立っているから存続させるべきだというのだ。

     新しい元号になった。新しい天皇が即位した。ひょっとすると、これが、最後の元号になり、最後の天皇になるかもしれない。さまざまな力が、そうした方向に向かって動いているではないか。

     しかし、そのことが日本と日本国民とにとっプラスに作用するのか、マイナスに作用するか、これはわからない。皇室が、この日本という共同体の凝集性の要素(強くまとめ上げる要素)として機能いる面がある。国際的な緊張や軋轢があるなかで、国家的、国民的な結束がますます重要になってきている。

     この点で、皇室の役割に期待しなければならないとすれば、なんとも民度が低い国民だと言わねばならない。昔からの伝統だとか、国柄だとかいうのではなくて、制度の実践的な有効性、プラグマティクな有用性という観点からの、再帰的な(反省的な)天皇制存続論も、ひとつの理屈として成り立つかもしれない。

     いま日本国は、憲法9条を改正し、強力な国軍を持つべきである。このことは疑いの余地はない。しかし、天皇制廃止の得失は、巨視的にはともかく、現下の状況においては、明快に論じがたい。

     具体的な廃止の行為によるよりも、跡継ぎがいないなどの事情での自然消滅の可能性が高い。それとも、新たな天皇制を考えるかである。その際、女系女子の天皇を容認することをふくむ、伝統からの一定の切断も、必要だ。

  • #1748

    KSASAGE (金曜日, 26 4月 2019 17:22)

    ゴータマ・シッダルタ(釈尊)の言葉を伝えていると言われている初期仏典『ダンマパダ』の132にある次の言葉はすでに引用した。

    「132 生きとし生けるものは幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せを求めているが、死後には幸せを得られる。」
     
    ここでは「不殺生」が語られている。不殺生戒である。人間はもちろん他の動物も殺してはならない、傷つけてはならないのである。

     むろん肉食は不可だ。詩人宮沢賢治は、結核になったとき、妹から「滋養をつけるために肉を食べる」ように言われた。しかし、彼は肉食をすることなく死んだ。賢治は仏教徒であり、菜食主義者だったのだ。(日蓮宗であり、国柱会の会員で、政治的には国家主義者であったようだ。)

     私事にわたり恐縮であるが、法事で茨木市の安楽寺(浄土真宗本願寺派)に行ったとき、「肉食もほどほどにせよ」という趣旨の法話を聴いた。
    (ちなみにアドルフ・ヒットラーも菜食主義者であった。水木しげる『劇画ヒットラー』ちくま文庫、参照)。


    「生きとし生けるものは幸せをもとめている」
     「その人は自分の幸せを求めている」

     これは経験的事実(観察された事実)について、人間も他の動物も「幸せ」を求めているという、眼前の現実について言われているだけである。「幸せ」を求めることは良いことであると言われているわけではない。

     仏教では、「幸せ」を求めるというのは、「煩悩」の世界における事象でしかない。

    「もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せを求めているが、死後には幸せを得られる。」

     この言葉は、もしがんばって「不殺生」を貫いた人物でも、生きている間は「幸せ」を得ることはできない、ということである。しかし、ここでは「死後」には「幸せ」を得ることが出来るとされている。

     「死後」について語れている。死によってこれまでの生が終わっても、また別の生があるという考え方である。これは「輪廻」(りんね)の思想である。

     しかし バラモン教をはじめとするインドの思想には「輪廻」(サンサーラ)思想があるが、釈尊の思想は違う、という仏教学者が少なくない。もしこの見解が正しいのだとすれば、「死後」のもうひとつの生はないのだから、「幸せ」は永遠にやってこないということになる。

     そもそも仏教からすると、「幸せ」の追求は、「煩悩」の表れであり、「我執」「無明」の所産でしかない。釈尊が、「輪廻」思想を肯定しているにせよ、否定しているにせよ、彼が「凡夫」の「幸福」への欲望を認めているはずはない。

     今月、法事で大阪市の徳乗寺(本願寺派)の住職の話を聞いた。「苦」も「楽」(幸せ?)もない、死後の世界についての話である。「苦」と「楽」は地平を共有している、これが「娑婆世界」であると。

     仏教とは、「苦」と「楽」の地平、言い換えれば、「不幸」と「幸福」の地平、さらに言い換えれば、「現世」(この世であり、「現実世界」)を、この地平の内部にありながら、超越する運動のことなのである。

    初七日の法要の後、僧侶はこういった。

     「お浄土は、あるとも言えるし、ないとも言えます」

     これは、婉曲表現である。つまり、「現実世界」とは別の世界などというようなものは「ない」ということだ。
     
     「現実世界」を超越しようとしても、これとは別の世界がない以上、永遠に超越できない。超越をめざすが、超越ができない運動があるだけなのだ。

  • #1747

    KSASAGE (火曜日, 23 4月 2019 23:28)

    ブータンの民衆は、幸福感に包まれている」と言われる。「しかし、彼らは本当に幸せなのだろうか」――などと、外部のわれわれが、ちゃちゃを入れるのは野暮なことだろう。

     興味深いことは、渡辺京二の本 『逝きし世の面影』 からも知られるのだが、幕末の日本を訪れた欧米人も、「日本の民衆は幸福感に包まれている」と、それも異口同音に語っていることだ。


     渡辺京二は、ブータンについては触れていないが、かっての日本の民衆について、彼らは現代の日本人とは人生についてまったく異なった考え方を持っていたと言っている。つまり、今の日本人のように、「自己実現」とか、「可能性」とか、「才能の開花」とか、謂(い)ったことを一切考えず、自分の「分」を甘んじて受け容れ、その「分」の範囲内で人生を生き生きと生きてきたと謂うのである。

     「身分」だけば、「分」ではない。生まれ持った身体的な条件がある。取り巻く環境があり、変更不可能な運命もある。巡り合わせもある。だれにも「無限の可能性」のようなもはないのだ。努力してもどうにもならないこともある。そんなものなのだ。

     勘違いして、「可能性」に向かって「努力」する、「チャレンジ」するなどと力むべきではない。ましてや「有名」になりたいなどとは、絶対に思ってはならない。なぜなら、そうした思いは、必ずその人を不幸にするからだ。渡辺京二は、われわれは「無名の人生」を生きるべきだと言っている。

     ブータンや幕末の民衆のように生きること。人生について、このように考え直してみるのも良いだろう。

     渡辺氏はお気づきではないだろうが、同じような人生観は、渡辺京二のほかに、ショーペンハウアーにもエピクロスにも見られる。また渡辺氏の関知するところではあるまいが、わたしはある予備校の講師控え室で、同じテーブルについたことがある。渡辺氏は私にかもぼこ屋で買われた天ぷらをくださろうとした。私は、もちろんご遠慮申し上げた。今から考えると、その時、渡辺氏は名著 『逝きし世の面影』 によって「有名」人になっておられたはずである。もとよりわたしは、これまでも、今も、そしてこれからも「無名」である。


    渡辺 京二
    『無名の人生』 (文春新書)2014年
     『女子学生、渡辺京二に会いに行く』 2014年
     『逝きし世の面影』 (平凡社ライブラリー) 2005年

    エピクロス『エピクロス 教説と手紙』岩波文庫

    ショーペンハウアー『幸福について』 (光文社古典新訳文庫)

  • #1746

    KSASAGE (火曜日, 23 4月 2019 22:32)

    久しぶり、10年ぶりだろうが、自転車に乗って丘の向こうにある古書店に行った。電動アシスト自転車だからこそ行けたのだが。

     岩波文庫にはワイド版がある。小さな文庫サイズでは読みにくいので、ワイド版の中村元訳『ブッダの真理のことば、感興のことば』(岩波文庫ワイド版、1400円)を買った。これは、お釈迦様の言葉が入っているという初期仏典で、『真理のことば』とは『ダンマパダ』(法句経)のことで、『感興のことば』とは『ウダ-ナヴァルガ』のことだ。
     
     イエズス・クリストの言葉は残されていないし、そもそもイエズスは実在しなかったと思われる。これに対してゴータマ・シッダルタは実在したし、その言葉も初期教典として残されている。『ダンマパダ』の「第10章 暴力」の冒頭数行を引用しよう(28~29頁)。

    「129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」

    「130 すべての者は暴力におびる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己(おの)が身にひきくらべて、 殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」

    「131 生きとし生けるものは幸(しあわ)せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。」

    「132 生きとし生けるものは幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せを求めているが、死後には幸せを得られる。」

    この訳書には膨大な註が訳者によってつけられているが、面倒なのでまったく見ていない。むろん後でていねいにチェックするつもりだが、今は自由に、勢いで自己流に読んでいる。いろいろ考えさせられる文章である。

  • #1745

    KSASAGE (金曜日, 19 4月 2019 12:24)

    トーマス・ペイン『コモンセンス』(岩波文庫)は薄い本だ。同じ著者の『人間の権利』は分厚い。後者は店頭にはないが、前者はまだ売られているようだ。良書とも、いわばデモクラシズム(厳密は、「デモクラシー」と区別される)の本である。

    ペインはイギリス人で、アメリカ独立革命を擁護した。その『コモンセンス』の偶然開いて眼に入ったページに,次のように書かれていた。

    「一人の人間を、他のものよりも非常に高い地位に置くことは、平等な自然権から是認されないと同様、聖書にてらしても弁護されないものだ。」(26ページ)

     英語の原文を見てみたいところだが、しかし「自然権」の原語はまちがいなしにnatural right であるはずである。naturalは、「自然な」とも訳せるし、「当然の」とも訳せる。つまり、「自然な(当然の)権利」が「自然権」ということである。

     「自然権」とはなにか。たとえば、畑で自分の労働で育てた大根は、私の大根であり、だれも勝手に持ち去ることはゆるされない。これが「自然権」である。私を切りつけようとした男を私が殴るのも「自然権」である。これらの「自然権」は、所有権として、また正当防衛の権利として、慣習法でも、制定法でも認められている。

     (注意を要するのは、なにが「自然権」――だれにとっても「当然の権利」――かということは、一部は時代を超えて普遍的なのだが、他の一部は時代によって変化するということだ。)。

     ペインは、特権的地位、身分的地位を「自然権」に反すると上の引用箇所で言っている。人間の「自然な」平等が語られている。人類の歴史の大部分は、部族社会(原始社会とも言われる)であり、そこでは一時的、部分的な指導者(狩猟や戦闘や祭祀などのリーダー)は存在したが、しかし猟や戦いや儀礼が終わればまたみんな横並びにもどった。そうした人とその他の人との間で、住まいも墓も違いはなかった。

     ペインは上の引用箇所で君主制を批判している。独立後生まれたアメリカ合衆国では、君主制を採用せず、共和制を採用した。大統領が君主に代わって国家元首となった。今日では、世界の199か国中、32か国を除いて、共和制(republic)の国=共和国(republic)である。

     ちなみにルソーは、『人間不平等起源論』で、「自然状態」の平等な状態から、「社会状態」(私有財産と国家がある状態)の不平等状態への移行を描いている。

  • #1744

    KSASAGE (土曜日, 06 4月 2019 23:25)

    「啓蒙思想」的な「知」のあり方、それは「主知主義」につながる。「主知主義」とは「知」の「エリート」(選良)主義である。

     「主知主義」は、「知」の権威主義であり、「無知」ないしは「非知」に対する優越的関係と一体の「知」のあり方である。

     自由主義とか、社会主義とかいった「啓蒙」の系譜に属する近代のメジャーな政治思想は、主知主義である。その中でも極端なのが、「科学」的「社会主義」として自己を絶対化したマルクス主義である。哲学者の竹内芳郎は、マルクス主義の決定的要素のひとつをその「主知主義」的性格に求めているが、これは妥当な見解だろう。

     なお城塚登の『若きマルクスの思想』(けい草書房)は、マルクスの思想的出発点を「啓蒙思想」としてとらえている。

    面白のは、ジョン・グレイで、彼の『ユートピア政治の終焉』(岩波書店)は、自由主義、社会主義だけでなく、ファシズムやイスラム原理主義をも「啓蒙思想」にぞくするものとして把握している点である。

     グレイは、『ニューステイツマン』誌や『ガーアディアン』紙で、この視点から現代政治を論じている。


  • #1743

    KSASAGE (土曜日, 06 4月 2019 22:59)

    TVドラマ化されたので、ご覧になったかも多いと思うが、妹尾河童の自伝的小説に『少年H』がある。これは平成9年の書である。

     この小説では昭和天皇の「戦争責任」が問われている。しかし、この天皇が何をしたかという作為、あるいは何をしなかったかという不作為でその責任を問う姿勢はない。

     「昭和天皇には、彼の在位中に戦争があったということだけで、戦争責任がある」というようなことが書かれているのだ。

     これでは「昭和天皇に責任がない」と言っているのと同じではないだろうか。これは、この小説が書かれた時点では、昭和天皇はすでに死んでいるということと関係しているのかもしれない。

     「平成」もおわり、いまや「令和」である。もう正面から、史実にそくして昭和天皇の戦争責任が問われるようなこともなくなるのだろうか。

     しかし、もし明治天皇が長生きして昭和の初めまで生きておれば、あるいは大正天皇が早死にすることがなければ、昭和の戦争は回避されたかもしれない。大正から昭和への天皇の代替わりの時、後続の中には「あの子が天皇になったらたいへんなことになる」と言った人がいたそうな。不幸にしてこの予言は,現実化してしまった。


     伊藤之雄『昭和天皇伝』(文春文庫)は、新しい史料(昭和天皇の没後公開されたそれ)をもとに、昭和天皇の実像――政党政治の時代から軍部政治の時代への転換において昭和天皇が果たした負の役割をふくめて――を明らかにしている。
     この天皇の幼少期の教育の問題点にも触れられている。

  • #1742

    KSASAGE (月曜日, 25 2月 2019 18:21)

    「啓蒙思想」は17世紀の西欧に登場した思想、思潮である。
    ルネッサンスがあり、宗教改革があり、そして「啓蒙(思想)」が出現し、近代の地平を切り開いたのだ。「近代」(modern)とは新しい時代という意味だ。

    「啓蒙思想」には、人間の自由な理性への深い信頼がある。
    そして「啓蒙思想」の基本的な部分に、
    かかる理性による、(1)古くからの伝統や既成の秩序への批判と、
    (2)そして世界の変革(改良、改革、革命)への志向と
    があるといえる。

     これは人間にとって知性、理性、科学が重要だという考え方である。知的なこと、ものにしたがった実践、制度、秩序が良いとういことだ。
    ここから「啓蒙(思想)」は、根本的に「知性主義(主知主義)」だといえる。

     「啓蒙(思想)」にあたる英語は、enlightenment(エンライトゥンメント)。まんなかにligh(ライト)があるが、ごぞんじのように「ひかり」である。動詞のenlighten(エンライトゥン)は、「ひかりではっきりと照らす」「啓蒙する」という意味である。

    訳語の「啓蒙」の「啓」は「ひらく」という意味。「啓蒙」の「蒙」は「くらい」の意味である。「啓蒙」とは、くらい状態(つまり無知の状態)からの脱却を意味する。

  • #1741

    KSASAGE (火曜日, 12 2月 2019 10:30)

    オルテガは「大衆の反逆」と言った(『大衆の反逆』白水社ほか)。
    クリストファー・ラッシュは「エリートの反逆」と言っている(『エリートの反逆』)。
    正反対のことを言っているようですけど、でも同じなんですね。

     20世紀になって「大衆」が進出してきた。「エリート」が就くべき地位にまで
    「大衆」が進出している。つまり大統領や大臣、国会議員になっているのは、「大衆」だということです。これがオルテガ。

     ラッシュは、いまの「エリート」は堕落した「エリート」だという。「大衆」と乖離した世界で生きている、「コミュニティ」や「普通のピープル」との、昔の「エリート」にはあった結びつきを失っているという。ラッシュは歴史家です。アメリカ史のなかで論じている。

     二人の違い。オルテガの議論は伝統的な「エリート」的立場からの貴族主義的批判と言われている。国王、国家、民衆に奉仕する「エリート」ですね。ラッシュは、「普通のピープル」の側からエリートを批判している。

     「普通のピープル」の側からラディカルに「エリート」や「エスタブリッシュメント」や「オリガ-キー」を批判するのが、「ポピュリズム」(人民主義、民衆主義)ですが、ラッシュの「ポピュリズム」には「階級闘争」論が節合している。

     政治、経済。メディアの「エリート」だけでなく、彼らを含む「アッパー・クラース」と「アッパー・ミドル・クラース」。これが人口の20パーセントなんですが、彼にとっての「普通のピープル」は、残りの人口の80パーセントです。労働者階級を中心とする民衆です。
     「ポピュリズム」ですから、基本は「ピープル」の立場に立っての「エリート」批判なんですが、あくまでも「ピープル」概念を優位させたうえで、「階級闘争」概念を取り込んでいる。ラッシュの「ポピュリズム」は社会主義的「ポピュリズム」ですが、マルクス主義的な社会主義とは根本的に対立します。



  • #1740

    TSUZINHO (水曜日, 06 2月 2019)

    今月の「100分de名著」はオルテガの「大衆の反逆」なんだそうですよ。
    ポピュリズム論がらみでしょうから見る必要がありそうです。
    http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/84_ortega/index.html

  • #1739

    義積弘幸 (水曜日, 23 1月 2019 22:15)

    『純粋理性批判』を久しぶりに手に取り、「第一章 純粋悟性概念の図式機能について」の途中まで、今日はバルトーク4曲を聞きながら読みました。これまではマーラーが多かったのですが、リズミカルなバルトークが聞きたくなって、そういう選択にしました。すべてよく知っている曲で邪魔にはなりませんでした。

  • #1738

    義積弘幸 (月曜日, 21 1月 2019 22:52)

    昨年後半、『ゲンロン6 特集 ロシア現代思想Ⅰ』『同前7 ロシア現代思想Ⅱ』を読んで学ぶことが多かった。特にドストエフスキーにおけるポリフォニー小説論を提示したバフチンについて、かなり紙面を割いて討議していたので、そこで新しいバフチンロンにふれることができた。
     また『同前4 特集 現代日本の批評』においては、浅田彰のインタビューも読むことができた。現在は浅田は柄谷行人とは連絡を取り合っていないと言う。
     編集は、71年生まれの批評家の東浩紀、私が読んだなかでは柄谷批判ができる数少ない批評家である。
     75年生まれの杉田俊介の「ロスジェネの水子たち」という論文もあり、この年代の悩みや問題点について述べていた。
     私が『ゲンロン』を知ったのは、FBでの若者の横光利一論とバフチン論によってであるが、年代の差を感じた。彼らは構造主義、ポスト構造主義、ネグリ・ハートの帝国やマルチチュードなどと言う言葉を何気なく使っている。私など、そうなのかと思うだけで批判もできないが、とにかくポスト・モダンと言った感じだろうか。私は今の若い?人たちには、こういうのがうけているのかと思うばかりだ。

  • #1737

    義積弘幸 (土曜日, 05 1月 2019 01:42)

    『純粋理性批判』も「超越論的分析論 第二篇 原則の分析論」まで来ましたが、こんなことを書くのも、少しでも読もうとするモチベーションをあげるためにすぎません。哲学学校の掲示板だから書いています。
     しかし、目指すのは「哲学と生活の結合」です。新しい年になって「食と運動」の重要性を再確認しています。特にインドアの私は運動もしなくては健康に過ごせないと昨年しみじみ感じました。生活の範囲が、だんだん狭まっている私。もう少し外に出て、もっと散歩するぐらいはしないといけないと思っています。
     朝ドラ「まんぷく」のモデルの安藤百福さんは『転んでもただでは起きるな!』で「食とスポーツは健康を支える両輪である」
    「人間は食べていかないと何もできない。空腹が満たされてはじめて、音楽や絵画や文学を楽しむことができる」と述べています。哲学も、そうでしょう。
     また、今年は「全力とほどほど」、つまり、アクセルとブレーキを踏み分けながら「ゆっくり力でいい年をおくりたい」と思います。

  • #1736

    義積弘幸 (金曜日, 14 12月 2018 20:43)

    『純粋理性批判』は「第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移りゆき」まで読了。と言っても、私の場合は傍線を引いているだけかもしれない。接続語に注意して、断定にさらに注意するだけの読み方である。どれだけ理解できているかは分かりません。しかし、眼で文章を追うだけでも独学だから仕方がない。これからも、この調子で行くしかないだろう。

  • #1735

    義積弘幸 (月曜日, 03 12月 2018 03:15)

    『死霊』七章「最後の審判」を読む。食われるものの悲哀と食うものの悲哀、食わざるを得ぬ生の悲哀という言葉に出会う。これは「ひかりごけ」について書く時、使えると思った。ここはイエスとサッカの食べ物を食ったことに対する「審判」なのだが、前半は、まさに「大審問官」の形式をとっている。
     しかし「大審問官」が人間の自由について問いただしているのに対して「最後の審判」はイエス自らの自己保存にまで深くつきつめている点すごいと思う。「聖書」の言葉もうまく引用されている。こう裁かれては逃げ場がないだろう。もちろん「大審問官」と同じく「最後の審判」でもイエスは沈黙しているが。というより、前者ではイエスは確かに登場しているが、後者の場合イエスは本当に登場しているかどうかは、わからないが。

  • #1734

    義積弘幸 (日曜日, 25 11月 2018 00:35)

    『純粋理性批判』・超越論的分析論に入る。悪文と言われるカントだが、下記から、ここまでは明晰だと思うのだが。少しづつ読んで行こうと思う。

  • #1733

    義積弘幸 (木曜日, 15 11月 2018 15:25)

    『純粋理性批判』、長らく止まっていたところから、少し前に進む。まだ、次の「超越論的感性論の結び」までは、今のペースでは少し遠いが、きっかけができたことは大きい。

  • #1732

    義積弘幸 (水曜日, 17 10月 2018 07:08)

    『純粋理性批判』は「第八 超越論的感性論のための一般的注解」の途中で、長らく止まっている。今は別なことに興味があるし、そちらが優先。しかし、必ず読破してみせる。

  • #1731

    白木銭だいば業者しげじ (日曜日, 10 6月 2018 05:14)

    もこくを曝す全てごほんぶつわたくしに勝ちたい役職を地位に置換した


    赤澤が無許可で早川中西対角線にっの社長嫌い三原看護士一族嫌われていることに気がつかなければならない破門

  • #1730

    嫌い後ろ楯許さない切り落とす (月曜日, 04 6月 2018 15:40)

    内閣府に花束いらない切り落とす


    国家公務員に受かるか臨時以外切り落とす気に入らない地位狙いスーツ切り落とす同じ違います役職許さない切り落とす母子家庭離婚地位狙いモデルを曝す同じ違いますくびれなしみーは寸胴くま会長しげじのけんぞくの女性がじむ対角線体で誘う許さない切り落とすくびれに親戚違いますスーツ切り落とすもくてきが違うこが切り落とすあくたーす切り落とす岡村切り落とすふつうぜんげんさんになんか花束いらないと思いますお忙しいでしょうから着払いでよろしいかと思いますぶらっくきゃっ男性どうし

  • #1729

    義積弘幸 (日曜日, 29 4月 2018 02:06)

    長い間、そのままになっていた稲岡義朗さんの「新しい法然27号」をやっと読み終え、新しく届いた「新しい法然28号」を今読んでいます。背後に2年前の熊本地震の体験があり、たいへん深いものがあります。
    27号には「生き直し」という「法然上人の生涯に学ぶ」というのがあり、稲岡さんは「法然上人起き上がり小法師」を作って「元気を出しましょう」と呼びかけたそうです。そして「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」と願ったそうです。自ら被災者でありながら、熊本の被災地を回る稲岡さんでした。

  • #1728

    高根英博 (水曜日, 11 4月 2018 16:25)

    義積様
    ありがとうございます。Facebookもほぼ備忘録状態ですが、日々の事柄を記録しています。なぜ義積さんととながらないのか不明ですが、これからもよろしくお願いします。最近はシニア料金を利用して、いろいろ出かけるようにしています。シニアになったことを最大限利用して、がめつく生きています。

  • #1727

    義積弘幸 (日曜日, 08 4月 2018 01:17)

    高根さんのフェイス・ブックより
    1月1日、フランクフルト学派シリーズのチラシから始まる。そして、『チボーの家』DVD4枚鑑賞とのこと。私は、居酒屋「チボーの家」には、いい思い出がない。泥酔して、吉田富夫先生にからみ、帰りのタクシーの中で嘔吐したからだ。
     自分の発表のチラシもあった。早く中味が知りたいと思う。『唯研』などで。『共産党とは何か』(スターリン批判?)新訳あり、立命館大・西川富雄先生の本あり、私の好きなミケランジェロについてもあり、私の友達の関係している「人民新聞」あり、『苦海浄土』(シェア)あり、しかし、相変わらず、東アジア(特に、朝鮮半島)に目は向いている。
     面白いところでは、トランプと金正恩、そしてアベのロシアン・ルーレットのマンガがありました。
     以上、プライバシーの侵害です。すみません。

  • #1726

    義積弘幸 (火曜日, 03 4月 2018 05:25)

    カント「空間・時間」
    〇 空間についての根源的表象はア・プリオリな直感
      純粋直観でなければならず、経験的直観であってはならない
      外的直観が可能である感性の主観的条件
      
    〇 時間は、すべての直観の根底にある一つの必然的表象
      時間は、ア・プリオリに与えられている
      時間は、感性的直観の一つの純粋形式
      カントが教えるのは、時間の「経験的実在性」客観的妥当性
      時間は、内的直観の現実的形式
     たんなるメモである。また悪い癖が出てしまった。

  • #1725

    義積弘幸 (月曜日, 02 4月 2018 11:38)

    ベルグソンの時間論を検討するため、中島義道氏の『「時間」を哲学するー過去はどこへ行ったのか』(講談社現代新書)を、その部分だけ読んだ。初めは肯定、あとは批判だった。中島氏は言う。
    《本当の時間が「純粋持続」のような非空間的純粋結晶だと考える必要はない》(p25)
     今、カントの「時間論」を読んでいるが、難解である。中島氏の批判は、カントにも少し及んでいるが、212ページの時間論だが、私は、今、40ページで止まったままである。

  • #1724

    義積弘幸 (日曜日, 25 3月 2018 04:12)

    カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞記念講演『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスル―』(英文と対訳、早川書房)を読みました。
     84ページまでは、だいたい小説の話が中心でしたが、85ページからは、世界情勢にに話が移って行くようです。例えば「いま振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以降、私たちはうぬぼれの時代、機会喪失の時代に入っていたのかもしれません」(p89)と言います。そして「極右思想や部族的ナショナリズムが跋扈する現在」「人種差別がふたたび勢いを盛り返す気配」とも。
     「一方、私たちを一致団結させられる進歩的な大義は、まだ見えて来ていません」(p91)とも述べています。そして「60歳を超えた私は、いまかすむ目をこすりながら見定めようとしています」と言います。」
     その後、文学は重要、若い作家が頼りだと言うのです(p93)そして「多様」が大切だと言います。ひとつは「共通の文学的世界を広げていくこと」、もうひとつは「よい文学とは何かを考えること」だと述べています。そして「よい作品を書き、よい作品を読むことで、障壁が打ち破られる」(P99)というのです。
     イシグロ氏は小説家です。しかし、彼の文学が持つ意味は、世界情勢と関係せざるをえないのでしょう。私は、文学にも興味をもっており、『ドストエフスキー入門』という冊子も出版しました。だから、あえて、この本の後半の世界情勢論を紹介した次第です。

  • #1723

    KSASAGE (金曜日, 23 3月 2018 00:06)

    保井温(やすいゆたか)さんが、「歴史倫理学」を提唱しておられる。
    しかし、保井さんの関心事は、「従軍慰安婦」問題や「南京大虐殺」問題である。
    そして『聖書』である。
     しかし、それらは「歴史」とは違う次元の事柄ではないだろうか。
    前者は同時代の問題である。まだ関係者が生きているのだ。歴史問題よりも国際問題であり、政治問題ではないだろうか。後者は、宗教の問題だ。

  • #1722

    KSASAGE (金曜日, 16 3月 2018 23:57)

    今週出た『季報唯物論研究』最新号の巻頭エッセイとして、
    「ポピュリズムの理論のために」という小稿を書きました。
    内容的には「ポピュリズムとは何か」についてです。

     日本の新聞には「ポピュリズム」を〝大衆迎合主義〟としてとらえているのがありますが、とんでもない間違いです。しかし、「ポピュリズム」を〝大衆迎合主義〟だと思い込んでいるひとが結構いるようです。新聞ばかり読んでいると馬鹿になりますので、注意してください。

  • #1721

    義積弘幸 (日曜日, 11 3月 2018 00:23)

    139ページの
     そうした学を区分するさいに最も重要な着眼点は、なんらかの何か経験的なものを、それ自身のうちに含んでいるいかなる概念も、全然入り込んではならないということ、あるいはア・プリオリな認識は完全に純粋であるということである。
     は重要な部分であると思う。。
    しかし「超越論的感性論」において「空間」と「時間」が出てくると理解できないような気がする。
     それに、こんなことを書いていて、何の意味があるのだろうかとも思う。わかっている人は、すでに理解されているのだから。だから、読んだところを、ダラダラと書くことは、私のアリバイ作りにしかすぎないだろう。もうちょっと、マシなことを書きたいと思う。また、他の方の、もっと有益な文章を読みたいと思う。
     とにかく、私は浅学・独学でありながら、細かく分けすぎて、ダラダラ書きすぎていたことに、今頃になって気づいた次第である。お許し願いたい。

  • #1720

    義積弘幸 (火曜日, 06 3月 2018 20:39)

    118ページからの「Ⅵ 純粋理性の普遍的課題」は重要なようだ。
     純粋理性の本来的課題=いかにしてア・プリオリな綜合的判断は可能であるか?という問いのうちに含まれている
     純粋理性使用の可能性=次の問いの解答
     いかにして純粋数学は可能であるのか?
     いかにして純粋自然科学は可能であるのか?
    形而上学について
     いかにして形而上学は自然素質として可能であるのか?
    最後の問い
     いかにして形而上学は学として可能であるのか?
     などの問いが130ページまで列挙されているからである。これらは、読まれた方は当然わかることだろう。
     カントの文章は悪文とされるが、このように明晰に書かれている部分もあるように思う。
     とにかく私としては少しずつでも読むことに如くはない。

  • #1719

    義積弘幸 (月曜日, 05 3月 2018 21:46)

    平凡社ライブラリー『純粋理性批判(上)』の「序論」107ページまで読んだ。
     前半は、経験的認識とア・プリオリな認識の対立のように読めた。
     難解なのは、分析的判断と綜合的判断との区別であった。
    「分析的判断は、述語と主語との結びつきが、そこでは同一性によって思考されるような判断」、「この結びつきが、そこでは同一性なしで思考されるような判断」が綜合的判断(P99)と書かれてはいるが、よくわからなかった。
     まあ、浅学の男が独学で、少しずつでも読んでいるということでお許し願いたい。

  • #1718

    KSASAGE (日曜日, 25 2月 2018 00:11)

    今日は佐野先生の、難しいハバーマスの理論の分かりやすい解説で、大変有益だった。

     フランクフルト学派には、第一世代、第二世代、第三世代がある。
    第1世代は、ホルクハイマー、マルクーゼ、アドルノ、ブロッホ、それにフロム等々である。第2世代がハバーマスで、第3世代がホーネット。

     世間ではそのように分類されているのだが、しかし、あくまで第1世代中心にフランクフルト学派は、理解されている。

     それで今日の質問で、「第1世代はラディカリズムであり、否定の哲学としてとらえられたヘーゲル、そしてマルクス、あるいはフロイトなんかが重要のな思想的源泉であり、「現実」(=「非真理」)のラディカルな否定の立場であったが、第二世代は穏健である、否定主義でない、これを「フランクフルト学派」とよんでいいものか?」というのがあった。

     佐野先生は、「ハバーマス自身が、自分を第1世代と同様にとらえてもらっては困ると言っている」と、質問に答えておられた。

  • #1717

    KSASAGE (金曜日, 23 2月 2018 21:22)

    明日の哲学学校の催しは、佐野誠さんが、ユルゲン・ハバーマスについてお話しくださる。私はこの先生の本を2冊読んだ。いずれもマックス・ヴェーバーについての本だ。

     この先生のマックス・ヴェーバー論やカール・シュミット論はぜひ聴きたいところであるが、明日のテーマは、「ハバーマス『コミュニケーション的行為の理論』を読む」である。

     ヴェーバーやシュミットは 闘争の理論である。
     これに対してハバーマスは「コンセンサス」(合意)の理論である。

     またハバーマスは、マルクス主義的社会主義(共産主義)ではなく、穏健社会主義としての社会民主主義で、社会主義とリベラリズムのアマルガムのような立場である。


  • #1716

    KSASAGE (金曜日, 23 2月 2018 14:19)

    「フランクフルト学派」というのがある。

     ドイツのフランクフルト(ソーセージで有)にフランクフルト大学があって、そこに社会研究所がある。マックス・ホルクハイマーが所長になって、そのメンバーたちをさして、「フランクフルト学派」と呼ばれている(広義と狭義があるが)。

     「フランクフルト学派」結構有名である。高校の『倫理』の教科書にでていたり、公務員試験に出たこともアル。

     ホルクハイマー、マルクーゼ、ブロッホ、アドルノなどが有名である。
    ノイマン、ポロック、キルヒハイマーもそうだ。

     ノイマンやキルヒハイマーは違うかもしれないが、
    マルクーゼやアドルノやホルクハイマーは、
    いわば、一種の<否定主義>の理論である。そして彼らの全員が、社会主義の立場であった。


  • #1715

    義積弘幸 (月曜日, 19 2月 2018 23:03)

    平凡社ライブラリー『純粋理性批判』(原佑訳)の序文が、やっと読めた。「第一版 序文」は、わかりやすかったが、「第二版 序文」の前半3分の2ぐらいまでは、わかりにくく長い間ほうっておかなければならなかった。
     再び読めたのは、マーラーの交響曲を聞き始めてから。以前からだが、カントとマーラーの交響曲は合っているような気がする。しかし、まだ何と言っても「序文」。本格的なのは、これからだ。おそらく、もっと時間がかかるだろう。
     『実践理性批判』『判断力批判』は、すでに読んでいるので、ノートを作りたいとも思うのだが、重要箇所はわかっているのだが、文章にするのは難しい。私は論文など書くつもりはなく、エッセイを書きたいのだが、よほど簡潔にしないと、そういう文章にならない。気楽に書けばいいのだろうが、カントの叙述を易しく書くことは難しい。おそらく『わがカント』(仮題)と言う形にするには、もう数年かかるだろう。その前に仕上げる構想のエッセイ集もあるし。
     昨年末に『キルケゴールと音楽』という冊子に、キルケゴールを中心に、ドストエフスキーとルオーを対比させて、自分の思いをまとめたが、ほとんど反応はなかったが、批判もなかったから、まあ、ひどい誤りはなかったのではないかと思う。しかし、キルケゴールをまとめるのも大変だったが、カントについてまとめるのは、さらに困難を極めるだろう。まず、構想が浮かぶのを待つところだろうが、とにかく『純粋理性批判』を読んでからだ。

  • #1714

    松岡幹夫 (火曜日, 13 2月 2018 03:10)

    親を馬鹿と認めなければ抹殺号令とは
    3年前前盲ろうの全国協会事務局長庵さんが時自宅に来たら突然手話通訳差別が入った。振興局の相談員はここにいるとなだめるが、完全沈黙では証人も作れず、そのチャンスに法務局は捜査権がない。
     全国大会は妨害対策に挨拶状と個人的手紙も出していたが結果は岩手も全国の友の会も知っている人は誰も現れない(合わせない)。
     大会後は全国に訴えたが誰も返事しない。一度にこれだけ動かせるのは知事しか居ない。しかも勧めた庵さんが簡単に口説かれていた。全国の友の会にしてもあいつに関わるなとされていた。
     知事が黒幕とは。栃木の妨害は知事同士の密約だったのか。
     息子も入れて6人の参加なのに何の効果も無かった。
     知事が相手では諦めるべきか。と言っても妨害の説明は何一つ来ていない。一人で調べることにした。
     暴走目こぼし権があったらと問い合わせした。法律関係だけ答え後の全国の社会福祉協議会は30も全部沈黙した。知らないからで無く喋れないことを示していた。法律関係の返事はそんなもの無いと言うだけ。似たものが他にもあって喋れないらしい。
     それにこれは岩手で暴走があったことを暗示している。非難と失笑、後ろ指が岩手に向けて飛んだことだろう。
     11月末頃一関社協に行って通訳差別の説明を求めたが長すぎて読めないとごまかす為全国への問い合わせを見せたら一関は和解したがって居ると言うが完全沈黙では和解は出来ない。嘘だと判る。
     そのまま帰ったが話は利用することにした。
     12年前の県庁の朽木課長は社会参加妨害の抗議に対して親父を馬鹿だと認めたらと言っていたことから既に亡くなっているし12年の妨害で疲れから好きなだけ馬鹿と言ってもいいですとしてその代わりに今までの圧力の廃止を求めた。期限付き2回の和解要求です。
     やっぱり無視。それで全国40に問い合わせの形で岩手の暴走を話した。そして1週間して福祉課に又話したがまだ無視している。
     完全沈黙では説明も出来ないし証拠は作れない。諸刃の剣みたいな法律です。証拠あるかと言う訳だ。それも障害者の団体の特権らしく厚生労働省が認めている態度で、法の下に何人も平等だと障害者110番の弁護士が言う。法務省も知っているはずでも完全沈黙では証拠は作れず動かない口実になる。一般には公開されないのではないか。理屈はともかく完全沈黙では初めから抹殺しか考えていない。障害者一人くらいどうでもいいとする決断でないか。こちらは社会参加を求め妨害はもう12年で12回になり辞めて欲しい。
     障害者の団体の暴走を隠すために暴走で障害者個人はどうでもいいと知事が決断し厚生労働省も全国の社協も認めているとは。
     復興を叫ばれる岩手だけの特権なのか。



  • #1713

    松岡幹夫法律の矛盾 (土曜日, 10 2月 2018 04:07)

    暴走を正義と気取る岩手のボランティア達への疑問
    今から12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。その後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心も押し付けて行った。親を馬鹿と言う出所は岩手県聾唖協会現会長だった(当時次期会長)。全通研も県庁も読み書き出来ない聾唖者の勝手な猜疑心から来たと知っていた。親父と口利いたことも無い。
     本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもしないで親を馬鹿にして全てを白紙にした。
     それから別の団体に行こうとして相談員は多忙で手紙で進めた。
     内定した頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さんひとみさんの悪口妨害が入り内定は取り消された。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。そして山形の姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言う。
     更に県庁に抗議したら当時の福祉課朽木課長は親を馬鹿だと認めたらとメールで言い出した。県の看板団体は暴走でも隠すことしかしない。既にあちこちかん口令を敷かれ社会参加はさせずどこの団体も行かせない。関わった人も団体も全て沈黙させた。暴走を暴走で隠し続け暴走で正当化された。密告も脅迫電話もお咎め無し。
    それから12年の間に12の社会参加妨害があった。栃木と交流も岩手から関わるなと悪口が入っていた。
     前の年の盛岡での講演会も通訳妨害されていた。
     そして3年前全国協会が家に来て全国大会に参加しろと。ところが全国協会が来ていたことがばれて圧力は激しく通訳差別が出た。 息子も心配して6人で参加したが岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。それどころか勧めた全国協会も全国の友の会も口説き伏せられていた。しかも黒幕は知事だった。
     説明の来ないまま諦めるのか。自分で調べた。
     好き勝手な暴走は合法的か。法律関係だけ暴走目こぼし権なんて無いと。他は社協が全国30も全部沈黙。これは喋れないことを意味して居る。看板団体はばれなければいいとする特権があることを示している。暗黙の了解とする説明不能の法律だろう。聾唖者へのおだてが暴走を招いている。
     12年も圧力に耐えて来た。これ以上はごめん。親は亡くなっているから好きなだけ馬鹿と言えとして、その代わりこれまでの圧力は全部廃止にして頂きたいと和解を求めたが無視している。。
     今まで完全沈黙は抹殺だけ考え証拠も作らせない暴走隠しは続けられる。しかも看板団体だからと合法なのか。

  • #1712

    高根英博 (日曜日, 21 1月 2018 12:36)

    昨日、ようやく研究発が無事出来ました!ありがとうございました。前回のドタキャンのおしおきか、教室の壇上での講演でした。やりにくかったです。A3で7枚のレジュメをこなしました。西田幾多郎、梯明秀、野間宏、埴谷雄高、市川白弦、水上勉、大燈国師、オノヨーコ、法然、親鸞、松本史朗、袴谷憲昭、柳宗悦、鶴見俊輔などを取り上げました。大忙しでした、取り止めもなくてすいませんでした。講演の最初に映像でジョンケージ作品の「4分33秒」の演奏の様子を流しました。

  • #1711

    一関市 松岡幹夫 (月曜日, 15 1月 2018 13:53)

    通訳差別、社会参加妨害は当たり前か
     昨年11月から『暴走目こぼし権』に付いて問い合わせを全国30以上の社協に出したことで事前に法務局と障害者110番の弁護士にも聞いていて法テラスと法務局だけ返事しました。無いと判っても疑問だらけでした。知事の暴走の理屈があるとしたら暗黙とされる法律でないかと。自分の口からは言えないという形です。
     法務省は何度質問しても法務局に話せと言う。厚生労働省は質問一つ答えない。だからただの問い合わせにした。
     暴走目こぼし権と言わなくても似たものはあるはず。
     障害者の団体は暴走でも完全沈黙が保てたら不問にするというのはあってもおかしくない。知事のばれなければいいとする独断もあると思うし、更に知事には緊急時の強権発動もあるはず。その緊急にあたる東日本大震災にしてはこれは自分の友の会を
    辞めた後の3年後です。息子は当時仙台の大学で20歳でした。そのときの大震災です。しかもこの時でも岩手からボランティアは誰も来ない。
     そして今は27歳。これで緊急時の強権と認められたかのように法務省も厚生労働省も納得して白紙化を容認したのでないか。
     だとしてもこちらに説明は12年も来ていなく誰一人関わらせずどこの団体も行かせない。社会参加は口封じから全て妨害した。友達は全部取り上げた。どう見ても暴走隠しです。厚生労働省も法務省も理屈を知っていたら説明しても当然のはず。沈黙も理屈のうちですか。暴走の正当化を容認している。
     3年前盲ろうの全国協会が来て全国大会に参加しろと言うが来た事がばれて通訳差別も激しくされ大会では岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。和解より抹殺しか考えていない。
     大会後に全国の友の会30に訴えてもどこも返事しなく岩手に口説かれていた。これでは居られなく退会して別の団体を探し入会しました。よりによって厚生労働省がバックに居てはどうなるか判らない。日本身体障害者団体連合会です。岩手にとって障害当事者が他所の団体に行く事は恥と見て妨害する。
     身内にいい加減諦めて馬鹿にされていろと言うことは一生負け犬扱いの差別しか来なくなります。看板団体優先にたかが障害者一人と見て ばれなければいいとして完全沈黙で囲んでいたが粘るため東日本大震災を強権代わりにしたのだろう。復興も叫ばれている。これが法務省と厚生労働省、全国の社協の態度として現れたことになります。
     復興優先だぞとなだめるのさえ出かねないがそんなもの出なく抹殺だけ考えた理由は辞めた理由にデマを流したことは取り消せなくて後へ引けなくなったと思う。こっらちはとっくに時効で告発は諦めて居る。完全沈黙破りはこちらから話すしはかない。
     聾唖協会、全通研がそれぞれ本家も口説き伏せて聾唖連盟や全通研本部の京都も口説き伏せている。一人対残り全部にされた。こんな立場で後へ引けません。
     全国の社協から失笑も聞こえるように電話されたら知事は怒り狂う。当然通訳協力者にも一関社協にも情報センターにも相手にするなと圧力は強められたと思う。どっちも答えなくなった。
     告発より社会参加妨害と差別の禁止を求めます。
     新しい団体は障碍者の社会参加を主要課題としています。
     騒ぎの元になった県聾唖協会石川会長は地元一関で8人の好きだから正しいとするグループにガードされています。県庁も全通研も読み書き出来ない人の勝手な猜疑心からだと知りながらです。










  • #1710

    高根英博 (月曜日, 01 1月 2018 21:15)

    明けましておめでとうございます。20日に哲学学校新年会と、私の研究発表をあらためておこないますのでよろしく。私の肺炎も一ヶ月ぶりに病院で検査をして全快の言葉をいただきました。いろいろ迷惑をかけて申し訳ありませんでした。大晦日は普通に紅白歌合戦を見てました。安室奈美恵が女神状態でした。てなところで、今年もよろしくお願いします。

  • #1709

    義積弘幸 (月曜日, 01 1月 2018 00:24)

    みなさん 明けましておめでとうございます。
    年末は、読み残していた『判断力批判』の「90」から最後までを読み切ることができました。ほとんど理解はできませんでしたが。
     次は、主著は『純粋理性批判』を原佑訳で読むだけですが、さらに難解そうです。果たして、読むだけでも読めるでしょうか。じっくりゆっくり読み進みたいと思います。
     今年が、みなさまにとって、よい年になりますように。

  • #1708

    元岩手県盲ろう会員松岡幹夫 (月曜日, 27 11月 2017 23:24)

    相手に暴走目こぼし権があったらどう対応しますか
     38年前仕事で仙台から一関に移り同じ仕事で聾唖者と仲良くなりいずれ家に遊びに来る約束を交わしていました。仕事を一緒にやろうという話も出ましたがそれが挫折してもこちらは目も悪くなって異存はなく、友達として仕事の機械をただで上げた。そしてお返しは望まないと念を押しています。
     ところが何年待っても来なくて親父と喧嘩になった。騙されたのだと言うのをそんな人でないとやり返して催促しても来なく訪ねるといろんな人が忙しそうですとさえぎった。
     心変わりしたのかと半場諦めて他の人と付き合って来ました。それが11年前に奥さんが盲ろう者友の会の通訳になったと聞いてファクスしたら今までのことは嘘だと判り怒ったら次期県聾唖協会会長婦人の一声で友の会にあいつを黙らせろとされて副会長が発言禁止にされ、更に小笠原利行事務局長がお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言い出した。これには馬鹿らしいと退会しました。後から全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心を押し付けて行った。親父を馬鹿と言う出所は石川会長だった。
     県庁も全通研も読み書きの出来ない知恵遅れ聾唖者の勝手な猜疑心からだと知っていた。石川君は親を馬鹿にして全てを白紙にし、約束守る事も詫びる事もしない。県にとって石川君も利行さんも県の看板の為辞めた理由はデマを流しかん口令で口封じされていた。
     最初の別団体県難連に行こうとしたら相談員の密告で友の会事務局長の奥さんのひとみさんから悪口妨害され内定が取り消された。
     これには怒って抗議したら大本家のおばあさんに脅迫電話された。大本家は山形の姉を呼びだした。姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなという。この後岩手県庁に抗議したら課長から親父を馬鹿と認めたらと言い出した。既にかん口令は広げられ更生相談所も社会福祉協議会(県本部)も障害者の社会参加推進センターも地元一関の社会福祉協議会も更に一関の身障協は口封じから入会お認めない。相手にするなと言う輪は広がり社会参加は妨害は11年で12回になった。関わった人も団体も全て沈黙させて友達も全て取り上げた。果たして暴走目こぼし権はあったとしてどう対応しますか。 岩手は説明も11年来ていない。厚生労働省は復興が叫ばれてか完全沈黙が保てるなら目を瞑るかのように質問も寄越さない。通訳差別も始めた。果たして暴走目こぼし権はあるでしょうか。完全沈黙で証拠も作れず諦めて社会参加だけにしても盲ろう者が友の会の手も借りずにあちこち行くのも県の面子に関わると勝手な理屈から妨害する。辞めたらどこへ行こうと勝手ではないか。看板団体の暴走を隠すために強権発動して障害者の一人くらいどうでもよいと社会参加は11年で12回口封じから妨害している、

  • #1707

    高根英博 (水曜日, 22 11月 2017 16:49)

    みなさまには迷惑をおかけして恐縮です!
    哲学学校発表当日、経済大に行こうとしたのですが、
    フラフラで途中で倒れてしまいました。家の近所の路上で。
    で、救急車で病院に運ばれました。
    肺炎と脱水症状ということで、携帯で田畑さんに連絡しようとしたのですが、
    電源が入っていず、さらに電源の入れ方を熱で思いつかず、
    ギリギリでやっと田畑さんに連絡がついた次第。
    面目ない!
    後、入院やら仕事復帰やらで、バタバタしていて、
    この掲示板への連絡を忘れていました。
    すいません!迷惑をおかけしました!

    当日、参加していただいたみなさん、本当にすいません!


    高根

  • #1706

    BYODO (木曜日, 16 11月 2017 07:52)

    高根さんの件では、皆さまにご心配おかけしています。
    聞くところでは、深刻な病気とかではなかったようで、一週間ほどの入院で復帰されるそうです。あと数日でしょうか。
    ご本人は、できなかった発表を日をあらためてぜひやりたいなど意欲を見せておられるようですが、しばらくは無理をしないようにと言っています。
    ということですので、どうぞご安心ください。

  • #1705

    TSZINHO (木曜日, 16 11月 2017 06:04)

    土曜日にメールを出したのですが、高根さんからはまだ返事が来ません。
    そのまま入院したものと思われますが、どうな具合なんでしょうね?

  • #1704

    KSASAGE (土曜日, 11 11月 2017 18:21)

    今日の哲学学校では高根さんのお話を聞けるはずでした。
    ところがオープンの時間になって、電話があり、
    高根さんが救急車で運ばれたとのことです。
     ちょっと心配です。