掲示板

コメント: 1849
  • #1849

    黒猫房主 (水曜日, 09 3月 2022 18:14)

    三寒四温とは言いますが、めっきり春らしくなってきましたね。
    さて、彼の国ウクライナでの戦争の本質は、アメリカ帝国主義(NATO体制)とロシア帝国主義との代理戦争だ。この狭間で苦しむは、いつもただの人民だ。
    この戦争に、アメリカは直接乗り出しては来ないだろうが、ベトナム戦争のように長期化するかもしれない、という予感がある。
    そうならないためにも、早急に第3国の仲裁を望む。
    少しく希望なのは、ロシア国内53箇所で反戦運動が自発的に起きていることだ。
    反戦の意思/石をクレムリンに投げ込め、そして希望を呼び込め!
    この間のカラー革命の背後にはCIAの支金提供があったらしいが、そうだとしても各国の民主化要求の根底には自発性があっただったろうし、その自発性はいずれはアメリカから自立してゆくことを信じたい。
    プーチンを倒せ! ウクライナとロシアに真の民主化を期待する。
    次回の読書会のご案内です。

    ■第18回「哲書会系読書会(仮)」のご案内
     http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/dokusyokai.html
    (この間の読書会のレジュメをサイトにアップしました)

    ■日 時:2022年3月24日(木)18時半から22時半まで     

    ■課題書:M・フーコー『言葉と物』(6章)、新潮社版(旧版)

    ■報告者:加藤

    ■会 場:京橋駅の某レンタルスペース
         会場は手狭なため常連メンバーのみですが、それ以外の参加希望者は
         リーモートでの参加が可能です。レジュメの関係がありますので、早
         めのご連絡をお待ちいたします。
         リモート参加希望者には、後日URLをお知らせいたします。

    ■世話人:山本(S):窓月書房
         e-mail:sougetssyobouアットマークmx5.canvas.ne.jp

  • #1848

    義積弘幸 (水曜日, 22 12月 2021 06:40)

    以前に「カントの『啓蒙とは何か』ー自分で考えることの勧め」という覚書を書いていた。今回、機会があって、それを読み返してみると多少気に入らない点を感じて、それに加筆・修正を行なって、なんとか自分で納得ができる文章になった。そうすると私見がわずかで要約ばかりの文章になってしまっていて恥ずかしいかぎりである。けれども、好きな論文を熟読して、そうなったのだから仕方がないと思っている。いつか、どこかに投稿する時があると思う。その前に、また加筆・修正するであろう。

  • #1847

    義積弘幸 (土曜日, 11 12月 2021 23:14)

    カントの『純粋理性批判 中』(平凡ライブラリー)もやっと「第二篇 純粋理性の弁証論的推論について 第一章」を読み終わり、「第二章 純粋理性の二律背反」まできました。意味がよく分かっているとはいえませんが、接続詞と肯定・否定などに注意して、ただ傍線を引いているというような感じです。とにかく「継続は力なり」と思って読み進んでいます。

  • #1846

    義積弘幸 (土曜日, 04 12月 2021 21:39)

    今日はリモート哲学学校に参加させていただきました。綾目氏の「柄谷行人の思想の変遷」の発表は、だいたい正確にそれをとらえておられたと思います。問題は、田畑さんが言われていたように交換様式一本に絞って考察している?点にあるのかもしれません。
     私は柄谷が交換様式a~cからDに高次の次元で回復される時、xというのを使っていますと言いました。「以上をまとめると、交換様式は互酬(a)、略取と再分配(b)、商品交換(c)、そしてxというように四つに大別される」(『世界史の構造』p15、岩波書店)このように書かれていましたから。では、何故このx(d)が普遍宗教とわかるのでしょう。それは次のように書かれているからです。
     「要するに、普遍宗教は、帝国が形成される過程で、交換様式bの支配下で交換様式cによって、交換様式aを解体していった時点で、交換様式dとして出現したのである」(同前、199)
     そして柄谷は次のように述べています。「交換様式dにおいて交換様式aがより高次の次元で回復される、と私は述べたが、この場合、回復というよりも「抑圧されたものの回帰」というべきである(中略)それは人が空想するような恣意的なユートピアではありえない」(同前、P211)
     そこで、私が柄谷が普遍宗教に関心をもっていたと思うのは、次のような記述があるからです。「交換様式の観点から見ると、a.b.cという三つの様式の結合からなる社会構成体は、普遍宗教に由来する観念や法を通して、交換様式dの影響を受けてきた。ゆえに、社会構成体の歴史を見る時、現実には存在しない交換様式dの契機を無視することができないのである」(同前、p225)
     また『世界史の構造』の「第2部 第4章」(P188~233)が「普遍宗教」と題されているのも、それをよく表わしているでしょう。
     そして、柄谷の次回刊行予定本が「力について」(仮題)であることを紹介しました。文芸雑誌で読んでいたからです。そこで柄谷がどう変わっているのか、いないのか、注目に価いするところです。
     ところで、平等さんも田畑さんも高根さんも映像でみると、そんなに変わっておられませんでした。お元気でなによりです。

  • #1845

    義積弘幸 (金曜日, 03 12月 2021 02:59)

    1975年生まれの小説家・平野啓一郎の『ある男』(文春文庫)を読んだ。殺人犯の息子が戸籍などをすべて他人と替えて別人になって結婚し、林業の仕事中に亡くなるという本当に意外なことが、弁護士の城戸によってその真相が明らかになるというミステリー小説?読売文学賞受賞作。以前、名ギタリストと国際ジャーナリストの恋愛を描いた『マチネの終わりに』(同前)も読んだことがある。
     私は、小説はドストエフスキー、武田泰淳しか読まないといっていいが、平野には興味がある。彼の造語の「分人」「分人主義」も興味深い。『私とは何かー「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)から引用すると「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である」とある。まさしくそうだろう。この「複数の顔」こそ「個人」ではなく「分人」といっていいものだろう。「私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている」とも書かれている。さらに「個性とは、決して唯一不変のものではない。他者の存在なしには、決して生じないものである」とも言っている。
     これは「個人」というものが不変のものではないという考えから生まれている。人は対人関係によって変わるのである。それを「分人」と言っているのである。つまり「対人関係の中で、現に生じている複数の人格」こそ「分人」なのである。この造語を「分析のための道具」として小説も書いている。その作品の流れも紹介している。短い説明だが、小説の作法としては面白い。
     「第5章 分断を超えて」では「最後に、私たちのコミュニティ間の分断をどのように乗り超えていくことが可能か」を「分人」を通じて考えてみたいとして、その考察をしている。おそらく、このテーマこそ平野が「分人」という造語を使って言いたかったことなのだろう。そして「今日、コミュニティの問題で重要なのは複数のコミュニティへの多重参加である」という。「まったく矛盾するコミュニティに参加することこそが、今日では重要なのだ」とも述べている。これが結論と言っていいだろう。
     私は平野の小説も「分人」「分人主義」も何も絶賛しているわけではない。ただ現代日本の作家として興味深いと思うだけだ。もっといろいろな現代日本作家を読めば、もっと関心をひく作家が出てくるかもしれない。しかし、私としてはドストエフスキーと武田泰淳で手一杯である。平野は『マチネの終わりに』と『ある男』を読んで興味をもっただけというわけだろうか。

  • #1844

    KSASAGE (土曜日, 26 6月 2021 16:06)

    6月26日(土曜)、哲学学校の交流会がオンラインでありました。
    13人が参加しました。コロナのついてのお話が中心でした。

     久しぶりに、皆さんのお顔を見られて、楽しかったです。

  • #1843

    Hirokats (水曜日, 05 5月 2021)

    ハートネットTV「54色のいろ鉛筆 〜奈良 大正中学校の挑戦〜」 前・後編を視聴する中で、印象に残った点がいくつかありました。
     先ず、「身近な安心感」というナレーションの生徒の言葉です。どの年代であれ、これこそが個人における平和というものの内実ではないかと思います。最近の青少年にしばしば言及される「承認欲求」もその安心感を得んがための一種の足掻きのようにも思えます。大正中学校における教育の実践は、生徒たちが多くの時間を過ごす場である学校で、彼らがどのようにしてその安心感を得ていくかを伝えてくれるものです。先生と生徒たちとの信頼感、生徒同士の信頼感、学校と保護者との信頼感、そういうものが、いくつかの場面を通して伝わって来ました。
     次に、生徒たちに安心感を与える一つの態度として過剰な「形式主義」を排する接し方を見ることができました。人間の行動にとって形式は非常に大切なものだと思いますが、それが過剰になると空疎な形骸化を生むことになります。若者たちの思考はそのあたりを鋭く突いてくる。先ずは、彼らの内実を受容することから始めなければなりません。そこから彼らも、自らの存在が承認される実感を持つことができるのではないでしょうか。
     哲学のエッセンスをごく身近なやり方で伝える授業。向本校長先生の授業でハイデッガーの哲学概念が教材に使われていました。人間=Daseinは、状況の中に投げ入れられていながら自らを将来に投企していく存在である、また根源的に気分的存在であるといったハイデッガー哲学のエッセンスを分かりやすく話されていました。校長先生の伝えたい気持ちが溢れた授業であったと感じました。生徒たちも自分が生きていく上での何がしかのヒントを得たのではないでしょうか。
     最後に、形式主義から程遠いボブ・ディランを敬愛する向本校長の人となりにも、ディラン好きの私としては、興味を惹かれるところがありました。コロナ禍という非常に厳しい状況の中にも、人間の地味な活動は続くと実感しました。

  • #1842

    KSASAGE (日曜日, 28 2月 2021 13:36)

    []
    一方は正統派、多数派であり、他方は異端派、少数派で、これは「分裂派」「分離派」「古儀式派」と呼ばれる。

  • #1841

    KSASAGE (日曜日, 28 2月 2021)

    1666年、ロシア正教が分裂した。一方は正統派、多数派であり、他方は異端派、少数派で、これは「分裂派」と呼ばれる。

     ドストエフスキーが『罪と罰』を世に出したのは1866年だが、これはこの分裂からちょうど200年後のことである。

     これは単なる偶然ではない。この小説の主人公は「ラスコリニコフ」であるが、「分離派」というのはロシア語ではなんと、「ラスコリニキ」なのだ。

    下斗米伸夫の『神と革命---ロシア革命の知られざる真実』(筑摩書房、2017年)の『宗教・地政学から読むロシア戦「第三のローマ」をめざすプーチン』(日本経済新聞社、2016年)のいずれもこの話題に触れている。

     哲学学校の集まりでも、なんどか「古儀式派」を話題にする人がおられた。しかし、多くの人は何のことかわからないためか沈黙しておられた。わたしもあえて話しに入っていかなかった。しかし、機会があれば、1905年、1917年のロシア革命、「建神派」、レーニン廟などへの「古儀式派」の影響について話題にしたいと思う。

  • #1840

    KSASAGE (金曜日, 12 2月 2021 12:43)

    念の為にいうが、今わたしが問題にしているのは、「報道」「メディア」「事実」「認識」の問題であって、森会長が会長を辞めるべきかどうかという問題とは別問題である。わたしは後者の問題にはまったく関心がない。オリンピックについても全く関心はない。

     「事実」は必ずしも「真実」ではない。慎重な検討を要する。哲学はもちろん、自然科学でも「事実」をそのまま受け取らない。いや「事実」の批判的吟味から「知」的探求は始まる。

     テレビ(これも60歳以上に愛好されている)のバラエティ番組で、「やるなら今でしょう」で有名は予備校講師が、
    大学で入ってすぐの時驚かされたのは、科学論の講義で、「事実の批判が科学の出発点だ」と聞かされたときである、このときは衝撃を受けた、
    と語っていた。

    「スポニチ」はこちら。 https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/02/04/kiji/20210204s00048000348000c.html

      「アゴラ」はこちら。
    http://agora-web.jp/archives/2050209.html
    「アゴラ」には森は辞めるべきだという意見と
    辞める必要はないという意見の両方が出ている。

  • #1839

    KSASAGE (金曜日, 12 2月 2021 12:24)

    わたしは『朝日新聞』は読まないが、それでもネットを通じてその報道ぶりについて知ることができる。どうやら今回も『朝日』の誤報というか、ねつ造というか、少なくとも歪曲があったのは事実らしい。

     おまけに『朝日』と『ニュー・ヨーク・タイムズ』が提携関係にあることが、混乱を拡大したようだ。

     近年では、新聞を読んでいるのは60歳以上が中心だそうだ。若いひとは新聞を読まない人が大半というよりも、ほとんどだそうである。なかには一度も読んだことがないという大学生もいるそうだ。

     しかし、『スポニチ』なんかは正確な「事実」報道をしているらしい。これはネット上で知った。アゴラというサイトである。

  • #1838

    KSASAGE (火曜日, 09 2月 2021 23:26)


    >当時の日本でいかに工業が盛んであったかということが背景として描かれている。
    訂正:「工業」→「鉱業」

      管首相はコロナ騒動の中で「自助・共助・公助」と言い出した。
    これをとらえて野党は「公助」の軽視だとわめきだした。

     しかし、両者に共通した「自助」(self-help)の理解には片寄りがある。
    つまり、「自助」がもっぱら「個人の自助」として理解されているのである。

     ところが、イギリスではself-helpということで最初に念頭に置かれるのは、個人の「自助」ではなく、peopleの「自助」なのだ。
     チャリティ団体や友愛協会(共済団体)の活動が「ピープルの自助」といわれるのだ。

     今日の日本語では「人民」や「民衆」といった言葉が死語になりつつある。このため英語のpeopleが「人民」「民衆」と訳されることはめったとなく、しばしば「市民」「国民」「人々」と訳されている。NHKのBS1を含め毎日の外国のニュース報道がそうである。

    社会(市民社会、地域社会、経済社会)のなかのピープルが自発的につくるアソシエーションに「社会主義」の可能性を見いだしたのは、ロバート・オウエンであり、コールであり、ラスキであった。彼らにとっては「社会主義」は、社会内部の人びとの「自助」の一種であったと言える。

  • #1837

    KSASAGE (火曜日, 09 2月 2021 22:56)

    文庫本の最後に解説がついたものがある。権田萬治氏であったろうか、ある推理小説の解説に興味深いことが書かれていた。それは戦前の雑誌『新青年』には探偵小説が多数掲載されていたのだが、そのなかでドストエフスキーの『罪と罰』が犯罪小説として紹介されていたということである。

     そうか犯罪小説なら読んでみようと、若き日のわたしは『罪と罰』を読んだ。ドストエフスキーはロシア人である。調子に乗ったわたしはロシア語に興味を持ち、ロシア語を勉強しかけたが、まあこれは続かなかった。というよりも、授業に一回出ただけで止めてしまった。

  • #1836

    KSASAGE (火曜日, 09 2月 2021 22:54)

    川勝静岡県知事の森元首相の擁護は、共同通信の記事になっている。
    https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/705120

     川勝知事はもと経済史家である。彼は日本の発展の基礎を日本が資源大国であったことに求めている。すなわち、金、銀、銅の三つが大量に産出したのは、日本だけだったというのだ。
     鉱産資源といえば松本清張の『西海道談奇』は、江戸時代の鉱山が舞台で、当時の日本でいかに工業が盛んであったかということが背景として描かれている。
     権田萬治の文章はたしか松本清張の小説の解説であったことを思いだした。

     日本は資源大国であった。モンゴルの日本侵攻の目的のひとつが硫黄(火薬の原料になる)であったという説を読んだことがある。また川勝氏の本によるとオランダの発展は東南アジアからの収奪と日本との貿易(とくに銀)に依拠したものだったという。

  • #1835

    KSASAGE (火曜日, 09 2月 2021 22:21)

    森元首相の発言がゆがめられて報道され、誹謗中傷の嵐の中にいる。
    わたしは、最初スポーツ紙で全文を読んだが、別段差別的な内容は含まれていないことがわかった。
     メディアの歪曲された報道をそのまま信じる人はともかく、元首相の発言の真実を知った上で、攻撃している人が多数いるのが残念だ。
     これは、いわゆる「フェイクニュース」ということか。「ポリコレ」(ポリテイカル・コレクトネス)の悪乗りか。

     しかし、川勝静岡県知事やアゴラの池田信夫氏は、冷静な見解を提示している。
    アゴラから森発言の関連箇所を引用しておく。
     
    http://agora-web.jp/archives/2050175.html
     以下、引用。

     女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますがラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(一同笑い)。5人います。

    女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまり言うと新聞に悪口書かれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、「女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困る」と言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。

    私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を射た、そういうのが集約されて非常に我々役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。

  • #1834

    Hirokats (土曜日, 06 2月 2021 17:36)


    平等先生、「大阪哲学学校通信」の編集、ご送付ありがとうございました。投稿者の皆さんが書かれたものも、興味深く読ませていただきました。このような開かれた場が用意されていることをありがたく思います。いくつかの投稿について感じた点を書かせていただきました。
     先ず、平等さんが巻頭文の中で書かれた哲学学校の存在意義、すなわち、「「生活現場」の具体性との境界面で哲学すること」、「多様な生活/人生を背負う市民が集い「対話を通して哲学することを学ぶ」」こと、これに改めて共感いたしました。しかし、このような態度は、特に多くの日本人は不得意とするところで、自らに不断の訓練を課して初めて可能になるもののように思います。哲学学校自体がそのような訓練の場であることを願います。
     細谷さんは「ケア」について書かれましたが、やはり倫理学からケアは外せないだろうと思います。長い倫理学の歴史の中でケアと言うものが、議論の俎上に上がったことはあまり無かったのではないでしょうか。ケアは高齢者だけに関わるものではないですが、高齢者問題について最も深く考えなければならない日本から、ケアについての鋭い思考が生まれて来ることを期待したいです。勿論、ジェンダー論とも不可分だと思います。
     義積さんは、小林秀雄自らの美的な体験の記述とカントの判断力批判を援用したその体験の哲学的分析について書かれました。私も、若い頃、小林秀雄に親しみ、「モーツァルト」や「近代絵画」には、少なからず影響されたので、興味深く読ませていただきました。奥深く不思議な美的体験をなんとか哲学的に分析しようとするカント哲学自体も奥深いものだと思います。
      以上、簡単ですが、「通信」を読んだ感想として送らせていただきました。

  • #1833

    黒猫房主 (土曜日, 30 1月 2021 12:37)

    <転送・転載 歓迎>
    ★会場は窓を開け放って換気に努め、参加人数も制限、コロナ対策は万全です。
    ★会場が使用中止になった場合は、オンラインで行います。
    ★途中参加歓迎

    ■第11回「哲学系読書会(仮)」
     http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/dokusyokai.html
     (↑この間の読書会のレジュメをサイトにアップしました)
    ■日時:2021年03月11日(木)18時より21時半まで)
    ■課題図書:以下の2点
    ★ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の後半(4-2~7)(岩波文庫)
    ★野矢茂樹『ウィットゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)
    ■報告:山本
    ■会 場:大阪市/北区民ホール・第3会議室(TEL.06-6315-1500) 
     地 図:https://www.osakacommunity.jp/kita/access.html
    ■世話人:山本
        会議室の定員の上限がありますので、参加の意思のある方はなるべく早くご連絡ください。
    ■連絡先:窓月書房 e-mail:sougetssyobouアットマークmx5.canvas.ne.jp

    -------------------------------------------------------------------------

    ■第12回「哲学系読書会(仮)」
     http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/dokusyokai.html
     (↑この間の読書会のレジュメをサイトにアップしました)
    ■日時:2021年05月13日(木)18時より21時半まで)
    ■課題図書:ウィトゲンシュタイン『哲学探究』前半(講談社版の新訳)
          https://honto.jp/netstore/pd-book_30569315.html 
    ■報告:ハマ
    ■会 場:大阪市/北区民ホール・第3会議室(TEL.06-6315-1500) 
     地 図:https://www.osakacommunity.jp/kita/access.html
    ■世話人:山本
         会議室の定員の上限がありますので、参加の意思のある方はなるべく早くご連絡ください。
    ■連絡先:窓月書房 e-mail:sougetssyobouアットマークmx5.canvas.ne.jp

    -------------------------------------------------------------------------

    ■第13回「哲学系読書会(仮)」
     http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/dokusyokai.html
    (↑この間の読書会のレジュメをサイトにアップしました)
    ■日時:2021年07月15日(木)18時より21時半まで)
    ■課題図書:ウィトゲンシュタイン『哲学探究』後半(講談社版の新訳)
          https://honto.jp/netstore/pd-book_30569315.html 
    ■報告:加藤
    ■会場所:大阪市/北区民ホール・第3会議室(TEL.06-6315-1500) 
     地 図:https://www.osakacommunity.jp/kita/access.html
    ■世話人:山本
         会議室の定員の上限がありますので、参加の意思のある方はなるべく早くご連絡ください。
    ■連絡先:窓月書房 e-mail:sougetssyobouアットマークmx5.canvas.ne.jp

  • #1832

    義積弘幸 (土曜日, 02 1月 2021 15:58)

    昨年11月から、精神科医の神谷美恵子の『生きがいについて』『こころの旅』『人間をみつめて』と読んできたが、年末年始はこれに続けて『存在の重み』『人と仕事』と立て続けに読んだ。いずれも「みすず書房」の本である。予定ではカントの『純粋理性批判』の続きを読むつもりであったが、予定とはあてにならないものである。
     神谷は、M・フーコーと直接出会いもしていて、彼の『臨床医学の誕生』『精神疾患と心理学』(以上、みすず書房)の翻訳もしている。私は前者は兵庫県立図書館から借りて興味あるところをコピーして読むことにしている。後者は購読するつもりだが、まだ手元には届いていない。私は、このように以前興味をもっていたフーコーと再会することになったのだが、これらは彼の初期の作品である。彼に言わせれば「若気の至り」ということだ。本格的な処女作は『狂気の歴史』(新潮社)であるが、これは拾い読みしただけである。あと少しフーコーを読んだら、また、カントにもどる予定であるが、これもあてにならない約束かもしれない。

  • #1831

    28 (日曜日, 20 12月 2020 01:47)

    全くもって、つまらない。

    と、言われたとき反応してしまうのは、まだ私が表現者として諦めていないからだろうか。

    あらゆる世界を旅をした気になっていた。
    そして、あらゆる世界に背を向けてきた。

    そのツケが、いま、自分にふりかかっている。

    老いた親の優しさが尊い。
    まだ、31になった子に期待を抱く親は偉大だ。

    何かせねばならぬ。
    何か成さねばならぬ。

    そう感じている私の日常は、とてもとても遠い存在であるかのような振る舞いをしている。

    私は急いている。
    しかし、身体はいまも老いてい行く。

    この1秒の価値をもう少し前に感じていればと思う気持ちは、
    既に私の人生に負けている証拠なのだろう。

  • #1830

    義積弘幸 (月曜日, 14 12月 2020 00:40)

    私はゥィトゲンシュタインについては、よく知りません。柄谷行人流の彼しか。『論考』の末尾「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」は有名ですが、では「語りえぬもの」とは一体何なのか、彼は語っていません。あれほど厳密に論理を進めて来た彼が。当時、彼は29歳でした。『探究』はほぼ60歳の著作です。そこで何が起こったのか、私は知りません。
     しかし、哲学的考察は、その間も続けていたでありましょう。永井均は『青色本』に注目しています。当時44歳。それがあたっているかどうか。
     ゥィトゲンシュタインの年譜は興味深いものだと思います。私は彼の全集の別冊付録で読んでいるのですが、29歳から60歳までの軌跡は面白いものがあります。今回、『論考』を読まれるとのこと、原書(翻訳でしょうが)を読まれることは大変良いことだと思います。入門書は参考にしてください。長くなりました。ぜひ有意義なものになることを願っております。できれば「大阪哲学学校通信」にその案内及び読書会について掲載されると、さらに興味を持つ人が出てくるかもしれません。

  • #1829

    黒猫房主 (土曜日, 12 12月 2020 17:28)

    2019年より哲学系の読書会を始めました。
    市井の人が日々の佇まいにあって、哲学書を徹底的に読み込むこと、さらにはそれを読み換え我が物にすることは困難なことですが、それが少しでもできたならば素直に喜びとしたい。
    たいそうなことを企てているわけでもなく、大仰に呼びかけることもしない。
    まずはご一緒に、キッチリと課題書を読み込んでいければと思っています。
    興味のある方は奮ってご参加ください(途中参加も可)。

    ■第10回「哲学系読書会(仮)」
     http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/dokusyokai.html
    (この間の読書会のレジュメをサイトにアップしました)

    ■日時:2021年01月14日(木)18時より21時半まで)

    ■課題図書:以下の2点
     ★ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)  
    ★野矢茂樹『ウィットゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)

     ■報告:山本
     ■会場所:大阪市/北区民ホール・第3会議室(TEL.06-6315-1500) 
      地図:https://www.osakacommunity.jp/kita/access.html
     ■世話人:山本
      会議室の定員の上限がありますので、参加の意思のある方はなるべく早くご
      連絡ください。
     ■連絡先:窓月書房 e-mail:sougetssyobou@mx5.canvas.ne.jp

     なお、今後のスケジュールです。
     2021年03月11日(木)北区民センター第3会議室
     2021年05月13日(木)北区民センター第3会議室

    因みに、後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』の新訳が11月に、講談社より刊行されました。
     https://honto.jp/netstore/pd-book_30569315.html

  • #1828

    義積弘幸 (木曜日, 10 12月 2020 20:42)

    精神科医の神谷美恵子の『こころの旅』『生きがいについて』(以上、みすず書房)を熟読したあと、カントの『純粋理性批判』(中、平凡社)の続きが読みたくなり、読み始めた。本格的に読み進むのは年末年始の休みになると思うが、それまでに少しずつ読み進めたいと思う。と言っても傍線を引くだけだが。難解な文章も読めば面白いものである。簡単に理解できる本もそれなりの意味はあるだろうが。まあ、こういう人間がいてもいいだろう。注意しているのは語尾と接続詞だけである。はっきり言って悪文であることはいうまでもないだろうが。

  • #1827

    28 (金曜日, 27 11月 2020 23:36)

    例えばですが、お笑い芸人のEXITが安倍元首相の桜を見る会への会計問題について下記のコメントをしています。

    https://news.livedoor.com/article/detail/19285953/

    平凡な視点だと思いました。命が大事であり、国や社会がそう思って欲しいという主張が。
    その主張にハッとさせられている自分がいて、生活の危うさを感じました。

    我々は変動する生き物ですので、変動する以上、自分が今、良い状態なのかを主観的に見る他ありません。
    主観以外の、日常生活において自分自身に冷水を浴びせるような別の視点を持つことができれば、それは哲学の意味となるのかとぼんやりと思っていますが、
    私の今に冷水を浴びせるのは田畑先生や平等先生の幻なのです。

    生活と正しさという、もっと言えば生活の場の哲学という大テーマの入り口がわかってきた気がしています。

  • #1826

    28 (金曜日, 27 11月 2020 23:23)

    単純に、現代において哲学を学ぶ意味とは何なのでしょう。
    もっといえば、哲学とは何なのでしょうか。

    言いすぎかもしれないのですが、哲学学校と言う以上、目的を持った学びが必要ではないでしょうか。
    己が主張ばかりを唱える場にならんことを。

  • #1825

    黒猫房主 (火曜日, 03 11月 2020 17:36)

    ■第9回「哲学系読書会(仮)」のご案内
    http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/dokusyokai.html
    この間の読書会のレジュメをサイトにアップしました)
    ■日時:2020年11月23日(月・祭日18時より21時半まで)
    ■課題図書:B・ラッセル『論理的原子論の哲学』 (ちくま学芸文庫)
    二〇世紀初頭、急速な科学進歩の中で構築されたラディカルな存在論、それ が「論理的原子論」である。この考え方に立てば、世界は原子的事実を最小単位として、複合的に関係づけられて構成されており、分析によって論理的原子へと切り分けることができる。ウィトゲンシュタインの前期著作『論理哲学論考』とともに、言語分析こそが哲学であるという観点を提唱し、分析哲学の始まりを告げた、現代哲学史上あまりに有名な講義録。記述理論、タイプ理論、事実の存在論など、ラッセル哲学のトピックスも平明に紹介された基本文献の本邦初訳(版元の紹介文より)。
    ■報告:加藤
    ■会場所:大阪市/北区民ホール・第3会議室(TEL.06-6315-1500) 
     地図:https://www.osakacommunity.jp/kita/access.html
    ■世話人:山本
    会議室の定員に上限がありますので、参加の意思のある方はなるべく早くご連絡ください。
    ■連絡先:窓月書房 e-mail:sougetssyobou@mx5.canvas.ne.jp

  • #1824

    義積弘幸 (火曜日, 06 10月 2020 22:50)

    9月29日、米国ジョンズ・ホプキンス大学の集計で新型コロナウイルスによる死者が100万人を超えたということだ。何というコロナ禍であることか。まったく恐ろしい。

  • #1823

    義積弘幸 (木曜日, 13 8月 2020 12:52)

    カントの『純粋理性批判』(原佑訳、平凡社)上巻を読み終える。と言っても傍線を引いただけであるが。ほとんど理解できていないだろう。しかし、今は難解なものを読みたいのである。
     コロナ禍の中のお盆休み、時間はある。次は中巻を読む。

  • #1822

    鹿山徹 (日曜日, 05 7月 2020 20:24)

    勝ち負けが、力の絶対全順序列が全ての無矛盾(具体的平和)の存在・実現原因なのではないでしょう。優劣の問題では無い。全掴み至上主義では、単なる忖度の連続にしか成り得無い自明の全連続、全掴み事至上でしか無いでしょう。全輪郭上のみの、全支配層のみの無矛盾中の全てに閉じてしまうだけでしょう。批判的考察の自由を実践的に求めます。分業主義は危険でしょう。全頭手足中への迎合に過ぎないからです。必ず全掴みの手の掌の中から出られないままなのです。一国民より。

  • #1821

    (月曜日, 22 6月 2020 01:20)

    ”左翼人として共産党に物申す”方々へ***経営者と経営学者の業績を、同じ尺度・角度で論断するのはお門違いであり御法度です。日本共産党は実践政治団体であって学会ではないのですから、党史の編纂と学説史の編集とでは自ずとその目的も方法も異なる場合があって当然でしょう。
     尚、この党を半世紀以上に亘って左翼陣営の内部から苛烈に批判し続けて来た勢力が「労働者党」を名乗って先般の参院選に登場しましたが、N国党にすら及ばない惨敗を喫して潰走しました。つまり、日本において革命又は経済・政治・社会・文化等に及ぶトータルな変革を志向・展望する勢力の収攬的運動領域(=国政議会闘争)は、当面(当分の間?)この党(共産党)を不動の前提にしろ、という客観的な情勢からの要請が、厳として(再)確認されてしまったということです。
     理論家や学者であれば、成功の充分な材料が出揃うまで10年でも20年でも待つことがむしろ褒められたりもするのでしょうが、実践家や活動家が条件的不備を理由にそんなに無為を決め込むことは、原則として批判の対象でしかありません。
     私が何を言わんとしているのか、お察し頂けるでしょうか?
     もし伝わらなければ何の意味もありませんので、もう汚い話をぶちまけてしまいましょう。
     要するに、対中路線の動揺つまりは党史の嘘などというものは、日本革命が勝利した後に、野坂や宮本に対する評価と一緒にシレッと書き変えて(正して)決定版を出せば良いだけのことなのです(勿論、不破氏や志位氏の「運命」も同じです)。
      「ああいう集団は勝たせてやったらますます謝らなくなる」という懸念には説得力がありますが、逆に「ああいう集団には勝たない限り謝る余裕は生まれない」という見方も可能です。そして、後者に立脚してやって行くしかない、ということです。
     スッキリしない話でしょうか?...私も同じです。

  • #1820

    KSASAGE (土曜日, 06 6月 2020 21:31)

    横田滋さん、逝去。
    私も、多くのひとびとと同様、北朝鮮への怒りを新たにしました。
    安倍首相は、長期政権になったものの、拉致被害者の奪還、帰国がならぬまま終わりそうです。

     社民党(かっての社会党)が「哀悼」の意を表していますが、この政党は一貫して北を擁護し、北の犯罪に加担してきた政党です。北による「拉致」は存在しないと言い続けてきた。

  • #1819

    KSASAGE (木曜日, 04 6月 2020 21:11)

    6月4日午後10時50分から30分間、NHKテレで、『世界の哲学者に人生相談――孤独に押しつぶされそう――ショーペンハウアー』があります。

     1日の『純粋理性批判』の第1回は真正面からカントの認識論をやっていました。当然「物自体」のハナシも出てきました。この辺りが哲学のなかでも一番、いわゆる「哲学」らしい内容です。
     カント哲学は、ショーペンハウアーやフッサールとおなじく、「超越論的観念論」です。このためショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の第1巻(第1章のようなもの)の内容は、カント流の認識論です。

     「客観」は、「主観」との関係においてのみ存在するわけであり、認識の「客観的対象」は「主観」を離れては存在しないことになります。「物自体」は認識の対象ではありえません。カントもショーペンハウアーも、そしえフッサールもそう考えます。

     よく「構造主義的マルクス主義」と呼ばれるルイ・アルチュセールは、「認識の対象」と「実在の対象」とを区別します。カント、ショーペンハウアー的に言えば後者は「物自体」という事になります。

     1日のテレビでも言ってましたが、『純粋理性批判』は驚くほど難しい。しかし、『意志と表象としての世界』(中央公論社)は分かりやすい。カント認識論への近道は、後者の第1巻を読むことです。
     

  • #1818

    KSASAGE (月曜日, 01 6月 2020)

    6月1日午後10時25分より、『100分de名著』で、カント『純粋理性批判』が始まります。水曜に再放送があります。
     講師はフッサール研究者の西研氏。笑顔でハナシをする人です。
    25分番組4回で、一冊の名著を解説する番組で、第1回はマキャヴェッリ『君主論』で講師の武田好氏は哲学学校の催しに聴衆の1人として参加されたことがあります。

     今日久しぶりに、本屋に行き、NHKのテキストを買いました。『純粋理性批判』の邦訳書には複数あり、訳語、訳文には大きな違いがあります。どれが一番の良いのか。番組で複数の訳本が映し出されると思うのですが、西氏、NHKはどの本を選択するのか、興味があります。

  • #1817

    岩本吉剛 (日曜日, 24 5月 2020 23:51)

    次の講座のかいさいびは?

  • #1816

    KSASAGE (木曜日, 30 4月 2020 13:33)

    しかし、金正恩は健在であるという分析も根強くある。
    https://www.youtube.com/watch?v=Bv2adycyCMQ

  • #1815

    KSASAGE (水曜日, 29 4月 2020 23:49)

    それにしても日本の大手メディア(朝日新聞)、大政党(日本社会党)、知識人(小田実、和田春樹)に、この国を擁護するものがいた(いる)ことは情けない。

    労働組合にも、この国に定期的に訪問する団体もあった(日教組)。日教組のトップだった槙枝は主体思想研究会に深くかかわっていた。有本恵子さんの拉致のきっかけを作ったのは、神戸外大のやはり主体思想派の教員だった。
    (ちなみに、主体思想の重要な構成要素のひとつにフォイエルバッハの哲学が入っている。)

    この一か月以上、コロナ騒動があったとはいえ、日本の大手メディアは、金正恩の死をめぐる報道にほとんど立ち入ることはなかった。アメリカや韓国での報道に少し触れるだけだった。これに対して、インターネット、ユーチューブでは、日々突っ込んだ分析が掲載されてきた。それがいまピークを迎えている。

    以下をご覧になっていただきたい。いずれも本日のユーチューブである。
    李相哲
    https://www.youtube.com/watch?v=0WX7AJSSC0I
    篠原常一郎
    https://www.youtube.com/watch?v=WKtA5YsoZ3I

  • #1814

    KSASAGE (水曜日, 29 4月 2020 23:45)

    金正恩は危篤、重篤状態にあるらしい。脳死、あるいは死亡したという情報もある。その確度はけっして低くない。(脂肪吸引手術のミスが原因という説もある。)

    北朝鮮の政治体制とはどのようなものか。それは、共産主義体制と世襲君主制とのハイブリッドであり、アジア的専制の要素も混在する政治体制である。
     
    朝鮮は20世紀まで、古代的な政治が行われてきた。西欧や日本では中世に封建制があったのだが、朝鮮には古代専制国家が日本による韓国併合まで続いた。

    金正恩の死が事実だとすると、北朝鮮ではいま後継体制への動きが進行中であるはずだ。

    金正恩の妹金与正が後継者であり、正恩の息子(10歳?)が成人するまで中継ぎするという説がある。いや、金日成のもうひとりの息子金平日が、急遽赴任(島流し)先の東欧から帰国しており、この人物が後継者となる説もある。

    中国からの介入、あるいは中国への依存というべきか、何よりも中国、それからロシアやアメリカも介入、あるいは引き込まれてくる可能性がある。この国は、つねに大国に左右されてきた。

    金ファミリーだけでなく。国家保衛部、党、軍、政府等の動向もある。これらを巻き込んで、金正日・金正恩派と金平日派とが対立する。どちらか一方を中国が支援する可能性もある。一口に中国といっても、習近平派があり、これと対立する江沢民派がある。人民解放軍の旧瀋陽軍区(満州の軍)もあるが、これは江沢民派とつながり、北朝鮮の軍部を支援してきたという説もある。

    ファミリー(王族)以外だとチェ・リョンヘぐらいしかいない。中国が、いや米中が一緒になってチェ・リョンヘを押し立ているケースである。この場合、金ファミリーによる支配はくずれるが、チェ・リョンヘは、旧パルチザン集団の一員だ。

  • #1813

    鴻爪泥 (日曜日, 22 3月 2020 21:24)

    共産党はなぜ勝てないか***彼らを見ていると、「扇動」という活動について勘違いがあるように思われます。彼らは「扇動」と聞くと、演説するヒトラーの後で行進するナチス突撃隊のモノクロのビデオ映像をすぐ想起するような一面的な「扇動」観にとらわれがちで、一般には「宣伝」と言われているテレビの企業CMが実は社会科学的にはこの上なく典型的な「扇動」の一例であり、その"敵側の手段"に(具体的な作り方以上に、むしろその原理やエッセンスを)学ぶという意識が希薄なようです。そしてとりわけ大衆の憤怒や敵愾心に直接着火するような「扇動」活動をしようとする人々に「極左冒険主義者」などの的外れなレッテルを貼ってとかく指弾しがちです。東大出の学校秀才で指導部を固めて「理知的に」大衆に諄々と道理を説けば革命ないし革新運動が前進するというのは、やる気はあってもセンスがないと言わざるを得ない気がします。

  • #1812

    義積弘幸 (金曜日, 13 3月 2020 04:17)

    実存主義の源泉にはキルケゴールがいる。彼のことをコンパクトに解説した本に『キルケゴール・人と思想19』(工藤〇夫、清水書院)があるが、その清水書院の出版社の人が「キルケゴールは売れない」とはっきり言った。
     しかし、私はキルケゴールは重要な思想家だと思う。だから、みなさんに読んでもらおうと思い、その主要邦訳書を少し紹介しておく。まず『世界の名著 キルケゴール』(中央公論社)があげられるだろう。『あれか・これか』は五分冊で「未知谷」から出ている。『愛について』は新潮文庫から出ている。
     次は主な解説書だが、まず『単独者と憂愁ーキルケゴールの思想』(飯島宗享、未知谷)他に『キルケゴールー美と倫理のはざまに立つ哲学』(藤野寛、岩波書店)『キルケゴールー憂愁と愛』(橋本淳、人文書院)などがある。
     そして、必ずしなくてはならないのは『死に至る病』(岩波文庫など)というネガティブな著作を読んだあとに『キリスト教の修練』(井上良雄訳、親教出版社)を読むこと。なぜなら、前者が第一部、後者が第二部という関係になっていて、二つの作品はセットになっているからである。
     これらの本を読めば、キルケゴールの思想を理解する契機となるであろう。これが参考になれば幸いである。

  • #1811

    KSASAGE (水曜日, 11 3月 2020 19:14)

    昨年末から、北権力中枢になにかが起きている。脂肪吸引手術に失敗したとか、憶測はいろいろある。フランスから医師団が入ったとも。韓国では中央日報など大手メディアも報道しているのに、なぜか日本の大メディアは沈黙。要するに、金正恩に異常があったのではないかということである。

     恒例の最高指導者による新年のスピーチがなかった。公式行事には「影武者」(耳の形が違う。目と目との間が広い)が代役を務めていることは「公然の秘密」である。

     金正恩はすでに死んだか。あるいは寝たきりか。妹の金与正が「摂政」ないしは後継者になったとも言われている。金正日の腹違いの兄弟の金平一は、ながく東欧に島流しになっていたが、それが急遽帰国している。

     北朝鮮は、公式に明言はされることはないが、一種の君主制――カリスマ君主制である。北の政治体制は、共産主義体制(朝鮮労働党)とアジア的専制(東洋的暴君(タイラント)の支配)との混合体制であり、一時期、金正日時代の「先軍政治」として、共産主義体制とアジア的専制と軍事独裁(軍部支配)との混合体制の時もあった。
     支配者は、金ファミリーという「革命の血統」から出てくるのではければならない。

     カリスマ的世襲君主制であり、金正恩の子供が後を継ぐ必要があるが、息子はまだ幼い。金正恩の兄金正哲はふにゃふにゃでとても最高指導者は務まらない。そうすると次は叔父の金平一か、あるいは妹の金与正といったところになる。病気の兄の「摂政」か。それとも次のトップ「女帝」か。

    すでに、金与正を中心とする集団指導体制になっているのかもしれないが、現在は非常に過渡的な情況であると言える。

     何か突発的なことが起きるかもしれない。ポンペオ国務長官、トランプ大統領、それに習近平の動きが気になる。

    https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/02/post-92450.php(03月10日)
    https://www.youtube.com/watch?v=a378rs_6r_k

  • #1810

    KSASAGE (土曜日, 07 3月 2020 15:48)

    サルトルで興味深く読んだのは、『弁証法的理性批判』全3巻(人文書院)である。『方法の問題』(人文書院)は、この書の序説にあたる。

     諸個人の「実践」から出発して国家(「主権集団」)にいたる存在・認識の過程が叙述されている。主体の「実践」が制度等々として「惰性」化し、「実践的惰性態」となる過程が描かれている。これは別の言葉で表現すれば「疎外」である。

     サルトルは、『弁証法的理性批判』を完成させることはなかった。『弁証法的理性批判』の理論を警鐘的に発展させようという試みもあったようだが、うまくいかなかったようだ。

    『弁証法的理性批判』は、いまでは図書館はともかく、書店の店頭にはない。また世の哲学者によって取り上げられることもない。過去の書であり、それも忘れられた過去の書である。

    どこまでも主体の実践から出発して社会理論を構築しようとしてのは、ルカーチの『歴史と階級意識』とサルトルの『弁証法的理性批判』である。この両者を踏まえて書かれたのが、1970年代になるが、真木悠介の『現代社会の存立構造』(筑摩書房)であった。

  • #1809

    KSASAGE (土曜日, 07 3月 2020 15:34)

    人文書院からサルトルの『存在と無』(松濤信三郎訳)が出ていたが、たいへん評判が悪いので、わたしは最初から読む気になれなかった。しかし、新潮社から出ていた解説書、竹内芳郎の『サルトル哲学序説』は、精読することができ、いちおう内容も理解できた(この書では、松浪訳をきびしく批判していた)。しかし、サルトルの「実存主義」哲学を一応わかたといっても、「なるほど」と思ったわけではない。

    今『存在と無』は人文書院でなく、ちくま学芸文庫からむかしの松浪訳そのままで出ている。新訳が出ないというところが味噌である。

     これに対してハイデガーの『存在と時間』は2013年以来、3つの新訳が出ている。昨日その中の一冊、高田珠樹訳、作品社の『存在と時間』を注文した。実は、岩波文庫の旧版、中公バックス版をすでにもっているのだが、一度も開いたことがない。とても歯が立たないという気持ちなのだ。

  • #1808

    KSASAGE (土曜日, 07 3月 2020 15:32)

    若い頃、わたしは「実存主義」に興味を持ったことがある。

     松濤信三郎の『実存主義』(岩波新書)を読んだ。

     「実存主義的」な小説とされた、カミユやサルトル、カフカの作品を文庫本で読んだ。

     小説で一番「実存主義」がわかったのは、新潮文庫のサルトルの短編集『水入らず』であった。しかし、カミユの『異邦人』はぴんとこなかった。『ベスト』はたいへん退屈であった。

     日本人では、椎名麟三、大江健三郎、倉橋由美子などの作品を「実存主義」として読んだ。感銘したと言えるのは、椎名麟三である。新潮文庫の『重き流れの中に』。まあ「実存主義」というよりも、「ニヒリズム」と言うべきかもしれないが。

     小説『異邦人』の哲学版が、哲学的エッセイの『シジフォス(シュースポス)の神話』(新潮文庫)である。『異邦人』は理解に苦しんだが、『シジフォスの神話』は、カミユの「不条理」――「世界」とわたしの「不条理」な関係――の哲学をわかりやすく説いてくれている。

  • #1807

    鴻爪泥 (火曜日, 03 3月 2020 19:06)

    民主主義には二様ある―ブルジョア式とプロレタリア式***<自由>という事象の構造論上の粋を成すものは<限定>である。そしてそれは自然・社会・精神を結び貫く人間の歴史性という一大過程に於いて在るものである。
     動物界では「弱肉強食」と言って一般に強大な個体が弱小な個体の肉体を食うが、人間界では<生産関係>というものを介して富裕層が貧困層の人生を食う。先進諸国の憲法=最高法規には“人が人を食う”資本による搾取それ自体を否定・禁止する条文が一つも無い。この様な社会から<自由>という概念を十全に抽象する事は本来不可能である。そしてこの事をマスメディアは何があろうと絶対に言わない。
     そもそも自由への途は合理的な限定にのみ在り、その限定の合理性の度合いがその自由の質(精度,規模,寿命等)を決定づけるのであって、人間(=認識構造を有する群棲動物)が人間である限りその存在(=社会的な<生活の生産>)を最も太く支える<労働>の論理的分析から遊離した似非抽象的な「自由」などというものは軽率な(ある意味で素直な)人の空想の中にしか在り得ず、現実の全き<自由>はただ労働者階級の歴史的使命のみがそれを更新的に実現・保証して行くものである。

  • #1806

    鴻爪泥 (土曜日, 29 2月 2020 19:10)

    科学と革命;権力論と前衛党***社民党が愈々事実上の解体過程に入った観がある。最早あの党は他党への吸収が嫌なら「全国」からは撤退して「地域密着の勝手連」あたりに当面の棲息領域を設定するしかないだろう。そして今日の社民党の有様は明日の共産党の姿である。
     彼らの衰退は必然だった。
     例えば「技あり二本で一本勝ち」というのは、あくまでも競技運営上の取り決めであって、技能錬磨のための練習の体系をそれに合わせて編成するというのは基本的であるだけに致命的な誤りである。練習においてはあくまでも妥協なく「一本!」を取れる鍛え方をまず徹底してやり抜いてこそ、実際の試合の場で諸条件を鑑み戦術的・作戦的に「技あり」を取って逃げ切るという様な戦い方も可能になって来るのであって、最初から「技あり」を(暗黙の)前提とした鍛え方をしておいて、試合の場で狙い通りに「技あり」を取るなどというのは余程の偶然や幸運が重ならなければまず不可能であろう。よく反体制界隈で問題になった”革命か改良か”の論理的な正答は「革命を可能にするようなスペックのみがまともな改良を勝ち取れる」であって、社・共の歴史は「革命的理論なくして革命的実践はあり得ない」というレーニンの金言を裏書きした軌跡だというのが総括である。

  • #1805

    鴻爪泥 (土曜日, 29 2月 2020 14:46)

    搾取;階級;資本主義***夫婦喧嘩の話になると正しく判断出来る人が、階級構造を考える時には途端にアホになる。
     激しく罵り合っていれば「夫婦喧嘩」で、同じ家に住んでいながら2年も会話がないどころか目も合わせないのは「穏やかな」夫婦なのか?私の見聞ではどちらかと言えば後者の方がより深刻で、離婚の際のイザコザも多いように思う。
     労働者がバラックで飢えているかマンションで肥っているかは、資本制生産様式が搾取メカニズムを基核とする本質を全く左右し得るものではなく、資本主義社会は常に階級社会なのであり、それは例えば東京の天気が快晴でも曇天でも雷雨でも太陽は特定の位置に必ず存在し、地表から肉眼で太陽が見えるかどうかは太陽と地球の天体的な位置関係に何の影響も及ぼし得ないのと結局は同じ話である。「国立自然保護区」の「野生」動物達が吸っているのは、あっちの空気もこっちの空気もいわば「人間の空気」である様に、「資本家的な生産の仕方が支配的である諸社会」(マルクス『資本論』の冒頭)に於て賃金で飯を食っている=飯を食うには賃金を得るしかない立場の労働者とその扶養家族は、当人達の自己評価や心情とは関係なく「賃金奴隷」という奴隷の一種である。
     「総中流社会」と「格差社会」と「階級社会」を別物と捉える認識は、科学的・理論的には明白な誤謬である。

  • #1804

    鴻爪泥 (日曜日, 09 2月 2020 20:08)

    ”偉人”への3つの質問***少し前、ラジオの「こども電話相談室」みたいな番組で、確か小学校低学年の女の子が「なんでにんげんはまちがうんですか」という質問を’炸裂’させた。回答者(文系の大学教授だったと思う)がスタジオで暫し絶句した。私も冷凍パスタをチンしながらラジオの横で「エ゛!?う~ん・・・」と思わず唸ってしまった。
     教授氏がどう答えたのかは記憶にない。おそらく答になっていないようなものだったのだろう。無理もない、と思う。どんな文献からの引用も無効であるし、古代から現代までのあらゆる学者が束になってかかってもこの子一人に勝てないのだろう。吉岡たすくや尾木ママならどう答えるか、には興味はあるが、やはり期待はできないと思う。この場合、大人が聞いて「なるほど」と思う名回答かどうかは聞き手の理解とは関係がない。
     こういう質問を素朴に心底から発するような(レベルの)主体に、理解でき得心がいくような回答をするのは至難の業、というか殆ど無理ゲーなのだろう。もしそれをやってのけるような人物が実在するのなら、皮肉でも冷やかしでもなく是非お会いしたいものである。そして3つの質問をさせて貰いたい。
     ・好きな言葉はなんですか
     ・読解に最大の心血を注いだ書物はなんですか
     ・歴史上の人物に1つだけ何かを訊けるとしたら、誰に何を訊きたいですか

  • #1803

    鴻爪泥 (月曜日, 27 1月 2020 22:17)

    あるネトサポへの私信***ネトサポさん。もうおやめなさい。あなたの社会主義批判は古すぎます。親のカネ儲けのためにテレビに出さされているインチキ超能力少年を見ているようで、こっちが哀しくなってしまいます。
     しかし私のような反体制側の人間が何をどうしようとあなたの網膜も鼓膜も少しも反応しないでしょうから、「あなたの側」の、しかも学歴も地位もある方にご登場願いましょう。
     一冊の本をご紹介させて頂きます。『資本主義の正体 マルクスで読み解くグローバル経済の歴史』(池田信夫/著,PHP)。
     この著者は左翼でも社会主義者でもありませんが、そういう立場と能力から書かれたマルクス物としては、保守政党や宗教団体の反共パンフレットを水増ししたような俗悪で低劣な物に比べて、内容的に圧倒的に良質です。
     サンダースが勝とうが負けようが、あなたは秋までにこれを読んでおくべきだと思います。  草々不一

  • #1802

    KSASAGE (水曜日, 15 1月 2020 23:23)

    間違いでした。こちらです。
    https://www.youtube.com/watch?v=AQWpv7pnmJ4&t=750s

  • #1801

    KSASAGE (水曜日, 15 1月 2020 00:49)

    92歳、韓国人女性の証言。韓国人ユーチューバーのインタビュー。

     https://www.youtube.com/watch?v=exManA0wP3I

     日本人と朝鮮人は平等な関係ではなかった(「とてもない」)といっている。
    これは植民地なのだから、当然だろう。  

    日本人の先生は優しかったが、学校で朝鮮語を話したら、名前を記録され、便所掃除をやらされた。

     慰安婦の「強制連行」について、自身の知る範囲ではなかった、と言っている。

     日本人の友達はいなかった。

    全体として、日本に好意的な発言であった。

  • #1800

    鴻爪泥 (水曜日, 01 1月 2020 23:36)

    どうでもいい話***私が過去他人から言われた中でも印象に残っている人物評価は「かしこいキ◯ガイ」というものだった。
     当時はフ◯ヤマとかいう学者ヅラをしたクイズ王レベルのオッチョコチョイが「歴史の終わり」とか宣い、その尻馬に乗った者らが「左」右両翼でドヤ顔をしていた横で、ITバブルがイケイケドンドンだったように記憶している。
     私はそんな世相などどこ吹く風で、「マルクス主義のエッセンスは今も有効であり、社会主義は遅かれ早かれ世界的に勝利する」と言っていた。当然大いに嘲笑されたが右人士に対しては「そもそもマルクス主義の批判者は殆どが資本主義と民主主義をア・プリオリに直結する裏面で社会主義と全体主義を必ずセットにするが、これは明らかな思想的疾患で、その原因の一つはおそらくマルクスやエンゲルスの古典をろくに読んでいないからである」と言い、「左」人士には「マルクスやエンゲルスを長年読んだのに流行反共思潮にあっさりイカレてしまうのは、文章的には読めるが論理的には読解出来ていないいわば社会科学上の文盲だからであり、その原因は間違いなく唯物弁証法が本当には身に付いていないからである」「近代以降の社会を唯物弁証法抜きに科学的な水準で認識しようなどというのは、例えば遠近感というものを持たずに野球やサッカーの選手になろうとするのと同じくらい荒唐無稽なことである」と言っていた。すると例の「評価」が下った訳である。
     別に誰にどう思われても結構だが、生死も不明なあいつらは今どうしているんだろう、とこの時季になるとふと思い出すことが多くなった。それはお互い様かも知れないが、もしかするともう彼らの誰一人として私を覚えている者は無いかも知れない。
     なお余談ですが「鴻爪泥」は人名ではなく、「渡り鳥が雪上や湿地の泥土に残す足跡(やがて雪解けや川の流れなどできれいさっぱりなくなる)」つまり「跡形もなく消えてしまう印」というような意味で、人の交わり等々うたかたの世の儚さを表す言葉です。
     末筆ですが、あけおめ。